地霊殿式テーブルマナー

作品集: 最新 投稿日時: 2010/03/20 23:54:20 更新日時: 2010/04/11 23:50:44 評価: 10/10 POINT: 73 SPPOINT: 56 Rate: 1.78
 ――悪魔のように黒く、地獄のように熱く、天使のように清く、まるで恋のように甘い。



 なるほどそれは至言であると、悪霊と旧地獄を管理する古明地さとりは、朝のコーヒーを口にしながらそう認めた。



 ステンドグラスから微かに漏れる光が洋風の室内をオレンジ色に染め上げている。

 その光の中で、テーブルに掛けられたクロースが、それ自体で発光しているかのように白く輝いて見えた。

 テーブルの上にある白磁の花瓶には、朝露を享けたばかりの薔薇が活けてある。

 そして、花弁を透かした向こう側に、その薔薇の化身を思わせる美しい少女の姿があった。

 さとりはその光景に満足して、コーヒーカップをソーサーに戻しながら、少女に呼びかける。



「こいし。今朝のコーヒーの味はどう? ミルクとお砂糖を多めにしておいたのだけど」

「甘くてとっても美味しいよ」



 まるで恋のように――。

 とはこいしは言わなかったが、その弾んだ声を聴けばそれに似た感想をもったことは分かる。

 こいしに微笑み返すと、さとりはエッグスタンドに添えられたスプーンを手に取る。

 卵は今朝、ペットのおくうが持ってきた温泉卵である。

 母なる大地のもたらす熱で、ゆっくりと茹でられたその卵の味は、地底の妖怪たちの間でも評判だった。

 核融合施設とやらが出来てなにが一番便利になったかと訊けば、皆この卵がいつでも食べられるようになったことを筆頭に上げるだろう。

 他にどのような用途があるのか知らないが、暢気な地底の妖怪にとってはその程度のもので十分なのだ。

 そんなことを考えながら、さとりはスプーンの柄で優しく卵の殻を叩く。啄木鳥のような長閑な音が室内にしばし木霊する。

 ひびが周囲に行き渡った頃を見計らって、さとりは殻の上部を持ち上げる。微かな湯気と共に、綿のような白身と、その中に黄金のように眠る黄身が姿を見せた。

 さとりはスプーンでそれを掬うと、やや慎重と思える動作でそれを口に含む。

 まず卵白がとろりと舌の上を流れる。その流れに運ばれるように、濃厚な黄身の味が、微かな温もりと共に口中を満たした。

 さとりはしばらく目を閉じて、その官能に身を浸す。



 文句の付けどころの無い、完璧な朝の一日である。

 愛しい家族と素晴らしい朝食を共にする。これ以上の幸福がこの世にあるだろうかと、さとりは心からそう思った。



「この卵も美味しいわよ。暖かいうちに食べなさい」

「うん!」



 幸福を分かち合う喜びに満ちたさとりの言葉に、こいしは元気良く返事をする。

 そして、こいしは姉と同様にスプーンを取る……はずのその手で、エッグスタンドにある卵をむんずと掴んだ。



「え……?」



 さとりがその行動の意図を察知する前に、こいしは勢い良く腕を振りかぶると、なんの躊躇もなく卵をテーブルの角に叩き付けた。

 ぐちゃりと、なにか粘液質のものを潰す嫌な音が室内に響き渡る。



「こ、こいし……?」

「んしょ、っと」



 こいしは姉の戸惑いに気づかないのか、エッグスタンドをソーサーの上からのけると、躊躇い無くその上に卵の中身をぶちまけた。

 皿の上にはぐちゃぐちゃになった白身と、それに塗れた黄身が、でろんと広がった。

 とてもさとりの目の前にあるものと同じ食物とは思えない有様だ。



「ちょ……ちょっと。駄目じゃない、そんな食べ方。殻も混じっちゃうし、だいいち食べにくい――」

「いただきまーす」



 こいしはぺこんとお辞儀をするように頭を下げたかと思うと、そのまま顔を皿の上の卵に近づける。

 そして、黄身の部分にそっと口付けたかと思うと――。



「ま、まさか……!」



 まるで動物の体内から臓物を引き抜くような耳に障る音が、幻想的ですらあった麗しき朝の光景を完膚なきまでに打ち砕いた。



「や、やめなさあああい!」



 さとりの叫びがその音をかき消そうとするように響いた。

 慌てて椅子を蹴ってこいしの元に駆け寄る。

 だが時すでに遅く、こいしは中身を存分に吸い尽くしたと見えて、顔を勢い良く上げて満面の笑みを姉に見せた。



「本当だ。すっごく美味しいね、お姉ちゃん」

「美味しいね、じゃないでしょう。全くもう!」



 黄身と白身に塗れたこいしの口元を、さとりは呆れながらもナプキンで拭ってやる。

 一方、こいしはそもそも怒られていることが分かっていないのか、むしろ嬉しそうな顔でされるがままになっている。

 そんなこいしを見ていると、いけないと思いつつもたちまち怒りが霧散してしまうのを、さとりは自覚した。



「駄目でしょう。そんな下品な食べ方しちゃ」

「えー。でもこうやって食べたほうが美味しいと思うよ」

「美味しくってもやっちゃ駄目です! まったくちょっと前はこんな食べ方してなかったのに、いったいどこでこんなことを覚えてきて――」



 さとりがそう言いかけたとき、ドアの開く音と共に、なにやら騒がしい声がどっと室内に流れ込んできた。



「ああ! さとりさまたち、もうご飯食べてるじゃない! お燐がなかなか起きないからだよ」

「んー。そんなこと言われてもあたいは猫だからさ、朝は弱いんだよねえ。勘弁しておくれよ」

「そっかあ。猫じゃ仕方ないなあ」

「自分の悪癖を猫全般に敷衍するんじゃありません。おくうもあっさりと人の言うこと信じないの。さっさと席に着きなさい」



 さとりは素早く汚れたナプキンを隠しながら、遅れて姿を現した二匹のペットに着席するよう促す。

 今年の冬にこのペット達が「ちょっとした事件」を起こしたせいで、さとりはペットの躾不足を周囲から咎められることになった。

 思えば、確かにペットを放っておいた自分にも反省するところがあった。

 躾と言うよりはスキンシップの一環として、さとりはペット達と食事を共にすることを思いついたのだ。

 だがこれまで奔放に生きてきたペット達を時間通り食卓に着かせるのは、想像した以上の難事だった。

 これまで二匹がきちんと食卓に揃ったことなど数えるほどしかない。



「おっ、今日は温泉卵か。いいねえ、朝はやっぱり滋養のあるものに限るよ」

「それ、私が持ってきたんだよ。せっかくだから暖かいうちに食べさせたかったのになあ」

「うんうん、おくうは優しいねえ。でも、あたいは猫舌だから冷めかけたくらいでちょうどいいんだ」



 そんな会話をしながら、二人はテーブルの空いた席にそれぞれ座る。

 そしておもむろに卵をその手に掴む。

 その時点でさとりは嫌な予感に襲われていたが、ある予想を裏付けるために黙ってそれに耐える。

 はたして二人は、がちゃんがちゃんと遠慮呵責のない音を出して卵をテーブルに打ち付け始めた。

 そして、二人は鏡に映したように同じような動作で、ひびに指を突っ込み、ぱかりと殻を割って皿に中身をぶちまけた。

 最後にぺたりと顔を黄身に密着させると――ずずずずず、と見事なまでの二重奏を食卓に響かせた。

 ややあって、お燐は満足したようにぺろりと口の周りを舐める。と、そこで初めてさとりの様子がおかしいことに気づいたらしく、気遣わしげな表情を向けた。



「あれ? さとりさま、どうしたんです。そんなにぷるぷる震えて? あっ、分かった。駄目ですよ、トイレは食事の前に済ませないと――」

「……あなたたちのせいですかあ!」

「え? えええー!? なんだか知らないけど、さとりさまごめんなさーい!」



 さとりが、怒声と呼ぶにはあまりにか細く甲高い声をあげる。

 それでも二人には十分だったようで、彼女らはたちまち動物の姿に戻ると、ささっと部屋の隅に逃げ散ってしまった。







○○●●●○○







「全く。以前、あなたたちにはちゃんとテーブルマナーを教えておいたはずですが」



 正座する二匹の前に、さとりは仁王立ちして言った。

 ちなみに正座させているのは罰のためではなく、そうでもしないとさとりのほうが逆に見上げる構図になってしまうからだ。



「そ、それは一応覚えていますが、やっぱり私達は元々獣なので、ああいう野生的な食べ方のほうが性にあっているというか……」

「はい。私は全部忘れてました。さとりさま、ごめんなさい」

「おくう! そんな馬鹿正直に言わなくても……ってさとりさまに嘘ついても仕方ないんだけどさ」



 二人の言葉にもさとりはさほど落胆した様子はなく、まるで教職者のように人差し指を教鞭に見立てて宙に振る。



「いいですか、あなたたち。マナーとは自分のためにあるものではなく、食事を共にする他の人への気遣いの表れなのです。言うならば、マナーこそ躾の基本とも言うべきもの。特に食事は己の飢えを満たすという本能に直結する故に、浅ましい姿が表れやすい。だからこそ、より一層周囲に不快感を与えない配慮が求められるのですよ」

「うぅ……それは分かりますが……さとりさま、一つ質問が」



 テーブルの向かい側で美味しそうにスコーンを頬張っているこいしを横目で見ながら、お燐が手を挙げた。

 が、お燐がその質問の中身を言う前に、さとりの胸にある第三の瞳がきらりと光る。



「何故同じことをこいしには言わないのか、ですか。仕方ないでしょう。説教は相手の超自我に働きかけて、意識的に活性を亢進させるものです。無意識で動くこいしにいくら言い聞かせたところで、馬耳東風で終わってしまいます。さらにこいしの場合、他者の行動を見たときのミラーニューロンの活動がそのまま無意識に影響を及ぼし、アフォーダンスがたやすく置き換えられて――」

「……あの、さとりさま。突っ込んだ話はその辺にしてくださいませんと、そろそろおくうの頭が限界です」

「う、うにゅ……障子が……ウーロン……阿呆がダンス……?」

「……つまり、あの子はすぐ周りの人の真似をしてしまうのです。分かりますか、おくう」

「うん、分かった。でもどうせなら私達じゃなくて、さとりさまの真似をすればいいのに」

「あまり認めたくありませんが、あの子への影響は私よりあなたたちのほうが強いようです。子供はある一定の年齢になると親より同世代の友人の真似をするようになります。すでに完成された淑女である私は、こいしにとって尊敬や崇拝の対象にはなりこそすれ、共感や同調を得るには少し遠い存在になってしまっているのです」

「最後にちょっと引っかかる表現がありましたが、だいたい分かりました。つまりあたいたちがこいし様の良い手本になればよいということですね」

「そういうことです。それに先ほども言いましたが、これはこいしへの薬であると同時に、あなたたちへの薬でもあります。テーブルマナーを通して、他人への優しさを学べば、先のような事件を起こすこともなくなるでしょう」

「薬……。薬は苦くて嫌だなあ」

「良薬は口に苦いものですよ、おくう。さあ、ではさしあたって、問題になった卵から練習してみましょうか。二人とも席に着きなさい」



 ぱんぱんと手を鳴らすさとりに促されて、二人は一度顔を見合わせた後、おとなしく席に向かう。



「はい。座るときは椅子の左側から。出るときも左側ですよ。おくう、その制御棒はテーブルの上じゃなくて席の左側の床に置きなさい。ナプキンを膝にかけるときは、目立たないようにゆっくりと。慌てては駄目ですよ。常に周りを意識しながら、それでいて意識していることを周りに悟らせない、自然な態度が理想です」

「うう……さとりさま、難しいです」

「最初はどれだけぎこちなくても、時間をかけてもいい。丁寧に一つ一つの動作を意識しながら行いなさい」



 四苦八苦しながらも、なんとか二人は食事の体裁を整えた。

 頃合良しと見て、さとりは温泉卵をテーブルのエッグスタンドに置いた。



「さあ、ではまず卵を割ってみましょうか。もちろん、テーブルの角にぶつけるのは駄目ですよ。こうやって……」



 と言って、さとりは後ろからおくうの手にティースプーンを持たせ、その上に自分の手をかぶせる。

 そのままスプーンの柄じりを卵に近づけるとその上の方をとん、と一突きする。それだけで申し合わせたように綺麗なひびが真横に広がった。



「優しく労わるように叩いてあげるのです。音はなるべくたてないようにね。やってみなさい」

「こういうのって苦手だなあ」

「駄目ですよ。特におくうは大きな力を管理することになったのですから、こういう細かな力の制御も出来るようにならないと、危なっかしくて仕方ありません」

「ううぅ……」



 ぷるぷると震える手でおくうはスプーンを卵に近づける。

 ようやくこつんとぶつかったそれは、叩いたというより接触させたと形容したほうが近い。



「おくう。相手を傷つけることを恐れすぎてもいけません。ぶつからなければ、そこから何かが生まれることもないのですよ。それは優しさとは呼びません」

「うぅ……優しさ……優しさ……」



 おくうは呪文のようにその言葉を呟く。

 だが、スプーンは卵の殻に触れたまま動かない。



「音をたてずに……、卵を壊さずに……。そうか、これなら!」



 かっ、とおくうが目を見開く。

 手の震えがぴたりと止み、その分のエネルギーがスプーンを持つ一点に集中する。

 その瞬間――おくうの持つそのスプーンが確かに光を放った。



「おおっ!」



 お燐が驚愕の声を上げた。

 おくうの手に持ったスプーンが、まるで手品のように卵を貫通している。

 スプーンは間違いなく卵の殻に穴を開けているが、その周囲にはひび一つ見えない。

 溢れるエネルギーを完全に制御した、見事な技と言わざるを得なかった。



「出来た……! さとりさま、見ましたか。これが私の優しさです!」

「零距離から打ち抜く優しさがどこの世界にありますか!」

「えー、でも音はしないのに」

「音がしない以前に側でこんなことされたら、怖ろしすぎて食事なんか出来ないでしょう。やり直し!」

「うみゅう……」



 おくうは力が抜けたようにしおしおとテーブルに倒れ伏す。

 ここでしゃんとしなさいと言うのも酷かと思い、さとりはとりあえずおくうは置いておき、お燐のほうの様子を見る。



「んー、さとりさま、こんな感じでしょうか」



 お燐は器用にスプーンを操りながら、見る間にひびを広げていき、卵の上部をくるりと囲ませた。

 その手際のよさはもはやマナーというより、一種の芸のようだ。



「……驚きました。やれば出来るのですね、お燐」

「えへへ。……でも面倒くさいです、これ」

「それが習慣になってしまえば、そんなことも思わなくなりますよ」

「そうかなあー」



 お燐がちょっと含んだ物言いをする。

 どうやらお燐は難なくこなせはするが、行為そのものにストレスが溜まるらしい。

 真面目だが要領が悪いおくうと、要領は良いが気まぐれなお燐。

 やはりマナーはその人の性格がでるものだと、さとりはしみじみと感じ入る。



「ほら、殻が上手に取れたら、後はスプーンで食べるだけですよ」

「はい……」



 お燐はスプーンで卵を一掬いすると、それを黙って口に運ぶ。

 一口、また一口と。表情も変えずに機械的な動作を繰り返す。

 だがそのうち、お燐の動作がぴたりと止まった。



「……お燐?」

「うにゃああああああ!」



 お燐は爆発したような叫び声を上げると、スプーンを放り出し、卵をスタンドから取り上げ、そのままぐい飲みのような勢いで中身を飲み干した。



「こらっ、お燐。何をするのですか!」

「ごめんなさい。やっぱり駄目です、さとりさま。あたい、こんなちまちました食べ方してもちっとも美味しくありません」

「だから先ほども言ったでしょう。マナーは――」

「さとりさまは先ほど薬だとおっしゃったけど、あたいにはこんな薬はかえって毒です。せっかくおくうが持ってきてくれた温泉卵なんだ。あたいはもっと美味しく食べてあげたい」

「お燐……」



 さとりはお燐の言葉に胸を突かれた思いをした。

 振り返ればおくうも、おずおずとお燐の言葉に同意する。



「ごめんなさい、さとりさま。私もどうせならお燐に喜んで食べてもらいたい」

「おくう……」



 最後に、さとりはこいしのほうを見た。

 それは答えを求めるためではなく、すでに自分の中にある答えを確認しようとした行為だった。

 こいしはまるで全てを察しているかのように、黙ってさとりに向かって微笑み返した。

 さとりは一度力強く頷く。



「分かりました。確かに形式を振りかざして、頭ごなしにあなたたちのやり方を否定するなど、私も狷介に過ぎました。薬も過ぎれば毒。確かにあなたたちの言うとおりです」

「いえ、あの、さとりさま。私達は何もそこまで――」

「私もあなたたちのやり方で、この卵を食べてみましょう」

「ええ!?」



 さとりの意外すぎる言葉に、お燐とおくうが驚愕の叫びを上げる。



「そ、そんな……。さとりさまみたいな高貴な方がそんなことをなさることは……!」

「見苦しい、ですか? それはおかしな話ですね。自分がやるのは良くても人がやるのは我慢できないなんて」

「あう……、さとりさま、怒っているのですか?」



 悲しそうなおくうの言葉に、さとりは一点の曇りもない笑顔で答えた。



「誤解してはいけません。私は拗ねているわけでも、当てこすっているわけでもありませんよ。私はさとりです。だから時折、他人のことが全て分かっているなどと思い上がってしまうことがあります。でもそれは違います。心は、言葉や表象に表れるものだけが全てではないのです。他人の心を理解しようとすることは、蜃気楼を追っていくようなもの。いくら近づいても、決してその芯は掴めない。だからこそ、相手のことを理解しようとするその行為に、十分などというものはないのです」

「さとりさま……」

「私はあなた達を戒めるにあたって、まずあなた達を魅了するその当のものを理解しなければならない。あなたたちは今日、私の言うことを聞いてマナーを守った食べ方を試みてくれました。ならば今度は私の番でしょう」



 そう言って、さとりは自分の席に着くと、厳かとも言える動作で卵を取り上げ、それをテーブルに打ち付ける。

 力の加減がうまくできなかったのか、二度、三度と繰り返すうちに、ようやく卵が割れ、湿った音がする。

 テーブルの角には微かに卵白の粕が残ってしまった。さとりはそれを見て、照れたような笑いを見せた。



「……やってみると意外に難しいものですね。さきほどのおくうのことをどうやら笑えないようです」

「あう……、さとりさま。そんなことは……」

「では――」



 さとりは皿の上に、温泉卵の中身を落とす。

 そして、目玉のように広がったそれに、まるで初めて口付けを交わす乙女のようにおずおずと、唇を近づけた。



「さ、さとりさま……」



 二人が固唾を呑んで見守る中、さとりは目を閉じ、思い切ってその黄身の塊に吸い付いた。

 ずるずるという忌避すべき音が、今度は他ならぬさとりの口から漏れている。



(こ、これは……!)



 だがさとりの胸のうちは、羞恥が入り込む隙間の無いほど、鮮烈な感動に満たされていた。

 さとりの口腔を満たす食感は、スプーンを使ったそれとまるで違っていた。

 スプーンを使用すると、どうしても黄身に卵白が混じってしまうが、この方法であれば純粋に黄身だけが味わえる。

 水気に薄められない黄身は、より純粋で、より濃厚な味を舌に残す。

 そして、何より驚かされたのは、この下品とも思えた、黄身を啜る音である。

 音は耳を介さず、直接脳に揺さぶっているかと思えるほど鮮明だ。

 音が脳を満たしていく。それは外界の一切の情報を追い出して、自己と卵、二つの事物だけの世界を脳内に築き上げる。

 黄身の味だけが、さとりの中にある全てとなる。喜びも楽しみも全てがこの黄身の内にあるように、今は思える。

 ――夢中とはまさにこのこと。

 ものを食べるという行為にこのような境地があることを、自分は久しく忘れていたのだと、さとりは理解した。

 その恍惚からさとりが解放されたのは、黄身を啜り終わって、皿に残っているのが白身だけになった頃であった。



「なるほど……。これがあなたたちの味わっていたもの」



 さとりはナプキンで口の周りを押さえながら、感極まったように呟いた。



「確かに素晴らしいわ。食べることに我を忘れる。それは浅ましく、マナーとは対極にあるように思える。しかしそこには、食べるという行為の原始的な喜びが、最も純粋な形で見出せる。それはもしかしたら、犠牲となった食物への最高の敬意と呼べるのかもしれない」

「さとりさま。あたい達、嬉しいです。まさかそこまで私たちのことを理解しようとしてくれるなんて……」

「――ですが」



 さとりはすうっと眼光を細める。

 喜色を見せて近寄ろうしていた二人は、一転してびくりとすくみあがった。



「己の快楽のみ追求することを良しとする考えに、私はやはり賛同するつもりはありません。確かにマナーの押し付けは相手を萎縮させ、結果として食卓の楽しみを蔑ろにしてしまいます。ですが、マナーを蔑ろにすれば、相手を知らず不快にしてしまう危険を常に犯してしまいます。食卓とは相手の心に接近する、最良の機会なのです。ですから逆に相手の心を傷つけてしまうことのないように、細心の注意を払うことを忘れてはならない」

「うみゅ……」

「うにゃ……」



 二人は今度こそ、心底反省したようにうな垂れた。

 さとりは二人の肩に優しく触れる。



「食事の自由とマナーは、お互いを尊重できるところで線を引かなければならない。確かにこの食べ方も美味しいけれど、音がしてしまう以上、どうしても他の人への影響を無視することはできないわ。だから心苦しいのだけれど――」

「――お姉ちゃん」



 今まさにその説教を締めようとしているタイミングで、こいしがさとりに呼びかけた。

 空気を読まない行動でありながら、何故かこいしがやるといつでもそれが自然であるかのように感じさせる。



「どうしました、こいし?」

「ほっぺにまだ卵がついてるよ」

「えっ?」



 さとりが驚いて頬に手をやるその前に、こいしがさっと顔を近づけた。

 白鳥の降り立った水面を思わせるような、軽やかな音がさとりの頬とこいしの唇の間から漏れた。



「ほら、取れた。えへへ、さっきのお返しだよ、お姉ちゃん」

「……えっ、……ああ、さっきって、口元を拭いてあげたときのこと?」



 呆然として呟くさとりを残して、こいしは跳ねる様な足取りで、自分の席に戻る。

 一方、さとりは自分の頬に手を当てたまま、石像のように固まってしまった。

 お燐はやや心配そうに、さとりに声をかける。



「あの……、さとりさま、大丈夫ですか?」

「え、ええ……。どこまで話したかしら?」

「食事の自由とマナーの線引きのことです」

「ああ、そうだったわね……」



 さとりはこほんと咳払いをすると、先ほどの威厳を掻き集めるように取り繕って、宣言する。

 だが、ほんのりと染まった頬だけは隠せなかった。



「確かにどこかで線を引かなくてはならないのだけど、私達はみんなお互いを見知った家族です。その線は少しだけ、自由の方にずらしても大丈夫なはず」

「ん?」

「黄身だけを啜るという行為は確かに下品ではあるけれど、今更そんなことで眉を顰めるような間柄ではないでしょう。私達だけが食卓にいるときは、許すことにしましょう」

「わーい!」

「ちょ、ちょっと待ってくださいよおおおおお!」



 無邪気に喜ぶおくうとは対照的に、お燐は納得がいかないように両手を震わせる。



「さっきまで言ってたことと何か違うじゃないですか!」

「あら、お燐はそっちのほうが良かったのではないですか?」

「いや、それはそうですけど。そうですけど! なんかちょっと納得しかけてたあたいが馬鹿みたいじゃないですかあ! 先ほどまであんなに威厳の溢れるお姿だったのに……なんかもう台無しに……さとりさまの……さとりさまのシスコン!」

「むむっ……飼い主に向かってそれはないでしょう。いくら親しい間柄でも言って良いことと悪いことがありますよ」

「どっちしたって心を読まれちゃうんだから好き放題言わせてもらいます。さとりさまのシスコン! シスコーン!」



 半泣きになりながら叫ぶお燐の隣で、おくうは不思議そうに首をかしげる。



「シスコーンって何? スコーンの仲間?」

「ああ、そうとも。スコーンの仲間さ。もう甘くて甘くて仕方のないものだよ。ごちそうさまでした、ちくしょう!」

「……どうやらあなた達にはテーブルマナー以前に、まずペットの立場というものを徹底的に教えなければならないようですね。今度はお灸という名の薬をたっぷりと据えてあげます。――そこに直りなさい、二人とも!」

「ぎゃああああああ!」

「うにゃあああああ!」



 逃げるペット達と、それを追い回す飼い主。

 テーブルの周りをぐるぐると走り出す三人の真ん中で、こいしは一人、コーヒーの残りを飲み干しながら呟いた。



「もう、三人とも。食事の時は静かにしなきゃ駄目なんだよー」







○●○ おわり ○●○
こいし「ご飯を食べる時はね、救われてなきゃ駄目なんだよ。孤独で……静かで……」

さとり「いや、元はといえばあなたが――」

こいし「サブタレイニアン・アームロック!」

さとり「いたたたたたた!」

おりん「こいしさま! それ以上いけない!」





というわけで時計屋です。

地霊殿組がどたばたする話、というのをとにかく書いてみたくて、最終的に出来たのがこのSSでした。

キャラが可愛いという意見が多くて何よりです。



ではいつものコメント返しを。





◇絹氏

大人の女には謎が多いのだとさとりさまが言ってた気がする。



>さとりさんの口のはしから溢れる卵白とかいい感じですね。

こやつめ、ハハハ!(AA略)







◇じろー氏

ひたすら甘々です。お口にあったようでなにより。

しかしこれがなかなか加減が難しい。

もっと甘口でもいいのですが、あんまりやるとキャラが崩れるかも。

むむむ……難しい。







◇名前が無い程度の能力氏

マナーは本当に大切です。

年をとるそれを痛感します。







◇ワタシ氏

プチですので深く考えずさらっと書いてみました。

一番とまで言ってくれてありがとうございます。本当に嬉しいです。







◇ぶるり氏

キャラの魅力をどうやったら引き出せるか。

いつも悩むところです。うまくいったようでほっとしています。



お題については、やはり「くすり」が痛恨事ですね。

プロットの段階では「マナー」=「くすり」で消化する予定だったのですが、

どうも印象が弱くなってしまい、慌てて他の箇所にもねじ込んだ結果がこの有様です。

大反省。







◇八重結界氏

なんでもない日常を面白く書く。

私にとって一つの理想です。

ですからそのお言葉はとても励みになります。







◇静かな部屋氏

苦しませずに一撃で楽にしてやろう、的な優しさですね。

食事の描写は難しいですなあ。

どうやったら読んでいるだけでお腹が減るような文章が書けるだろうかと四苦八苦しています。







◇飛び入り魚氏

黄身のネタは同案多数だと思っていたらむしろ少数派だったのでびっくりでした。

私もさとりさまに「めっ」って叱られたい。

もしくは冷たい目で思いっきり軽蔑されたい。







◇K.M氏

地霊殿組は本当に可愛いですねえ。

今までSSに書いてみたくてしょうがなかったのですが、今回やっと本願を果たしました。

次はシリアスなの書きたいなあ。







◇Ministery氏

笑って楽しんでいただけて何よりです。

こういうSSは書いている私も楽しいです。
時計屋
作品情報
作品集:
最新
投稿日時:
2010/03/20 23:54:20
更新日時:
2010/04/11 23:50:44
評価:
10/10
POINT:
73
SPPOINT:
56
Rate:
1.78
1. 通常ポイント6点 お題ポイント4 ■2010/03/21 06:07:24
楽しい食事風景を楽しませて貰いました。
謎の知識を垣間見た気がしたが、はて気のせいかなぁ。
さとりさんの口のはしから溢れる卵白とかいい感じですね。
2. 通常ポイント8点 お題ポイント5 じろー ■2010/03/21 17:20:52
お題よりもシスコンとスコーンのくだりに思わず「うまい!」と思いました。
本当にごちそうさまですよ。ああちくしょう! この渇きはなんだ。もっといちゃいちゃしても僕は全然構わないぞぉぉぉぉぉ。
あまあまですよね。もうたまらないです。さとりんのシスコンぷりで温泉卵かけご飯3杯はいけます。

おりんもおくうも性格がとてもSSにあらわれていて、キャラの行動に一貫性があって、そのあとの行動が予測できておもしろかったです。
おりんなら投げ出してくれるだろうなぁ・・・と思っていたら思った通り投げ出して。
最後に反発して、痛いところを突く役としてもおりんの性格がでてるなぁとしみじみ思いました。
でてくるキャラ全部が愛らしくて、ほっこりするお話でした。
3. 通常ポイント7点 お題ポイント3 名前が無い程度の能力 ■2010/03/26 03:01:06
マナーは大切ですね。どうか3人がそれをわかってくれることを祈って。
4. 通常ポイント10点 お題ポイント7 ワタシ ■2010/03/28 02:26:27
起承転結がわかりやすい、テーマは簡潔、舞台が一箇所に集中してるので頭の切り替えもいらず
キャラごとの会話のテンポがいいためダレることもない。
なによりみんな可愛い。今回の個人的ナンバーワン。
5. 通常ポイント6点 お題ポイント5 ぶるり ■2010/04/01 18:03:54
 あー、とってもキャラが皆さん魅力的であります。
 話自体はそこまで特筆すべき物のないほのぼのなのですが、何というか、結構好きですこれ。
 話の運び方も上手ですし、うんうん。文句なしにこの点数です。

 お題について。
 卵の黄身、音、薬。全部良く使われてると思います。
 ただ、薬という言葉回しはちょっと気になったのでこの点数。
6. 通常ポイント7点 お題ポイント3 八重結界 ■2010/04/02 17:16:20
温泉卵を食べるだけの話が、どうしてこれだけ面白いのか。不思議です。
そして威厳と可愛さが混在しているさとりに惚れるなど。
7. 通常ポイント7点 お題ポイント6 静かな部屋 ■2010/04/02 21:01:08
【内容のこと】
 このさとりん右京さんみたい。心も読めるし。
「零距離から打ち抜く優しさがどこの世界にありますか!」
もうこれつぼに入ってwww
 食べ物の描写というか、食事シーンの描写が上手で、キャラのセリフも違和感がなくて、良かったです。
【お題のこと】
 ちょっと「くすり」を連呼しすぎていたような気がしますが、それ以外は僕にはちょうど良かったです
8. 通常ポイント7点 お題ポイント8 飛び入り魚 ■2010/04/02 21:36:00
 黄身をメインに据えたちょっと珍しいタイプですが、うまく料理できていたように思えます。
 和やかな地霊殿の一コマを覗かせていただきました。ご馳走様です。
 ちなみに自分、温泉卵は醤油を垂らした後にご飯にかけてがつがつと。さあ叱って。
9. 通常ポイント8点 お題ポイント8 K.M ■2010/04/02 23:14:52
えぇいシスコンさんもペットもかわいいなぁ畜生。
あ、固茹で卵が好きなのでできればそれを頂きたく。
10. 通常ポイント7点 お題ポイント7 Ministery ■2010/04/02 23:33:00
未だに卵が上手く割れない私は配慮無き零距離卵割りに大爆笑する資格は無い(笑
楽しかったです。
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