白タイルとアンチバイオティクスのメビウス環

作品集: 最新 投稿日時: 2010/03/20 23:41:26 更新日時: 2010/03/20 23:41:26 評価: 11/11 POINT: 72 SPPOINT: 49 Rate: 1.62
 ――例えば君が私の傍らから、手の届かないところへ泡沫が如く消えてしまうと言うのなら、代わりに私こそが消失するべきです。君は泣くのかもしれませんが、しかし愛に殉じるとはそういう事なのです。そう、愛とは本質的にとっても我が儘なものだから。


 ◆ ◆ ◆


 白いカーテンを揺らして、ふわりとやわらかな陽気が吹きこんできた。
 衛生に配慮された光触媒タイルの床もまた白く、私が横たわるベッドのシーツはそれ以上の純白だ。
 久しぶりに、目覚めの気分は爽やかだった。頭痛もあまりない。病室を個室に移して貰ったのが、幾らかよかったのかもしれない。ここは、あの鼻を刺す薬品臭もあまり匂ってこないから。
 ぼんやりと、窓の外を眺めてみる。
 薄桃色の花びらが、緩やかな日差しを浴びて、ちらちらと舞っていた。穏やかな四月の午後。
 病院の庭にずらりと並んだ、満開の桜並木。華々しく咲き誇るその姿は間違いなく美しいのだけれど、眺める私の笑みは、もしかしたらどこか諦観を湛えたそれだったのかもしれない。
 ぽつりと、呟きが漏れた。

「あの桜が散ったら――」
「私も死ぬのかな? って? そんな感傷的な台詞、蓮子には似合わないわ」

 唐突に視界へ入った人影に、私は少しびっくりして、体をびくりと振るわせる。
 そんな私がちょっぴりおかしかったのかもしれない。柔らかな金髪をそよ風に靡かせ、彼女はくすり微笑んでいた。

「メリー……来てたんだ」
「午後から休講になってね。久しぶりに親友の顔見れて、嬉しいでしょ? さ、リンゴ持ってきたの。いまや青森の山奥でしか栽培されていない天然のリンゴよ。剥いてあげるから一緒に食べましょ」

 左手に持ってたバスケットから、赤く熟れた果実を彼女は取り出した。顔は微笑んだままだ。あの悪意のない、親愛を込めた、私だけに宛ててくれる笑顔。
 マエリベリー・ハーン。私にとって無二の親友。

 私が病院での生活を余儀なくなくされたその日から、毎日のように彼女は見舞いに来てくれていた。
 ベッドに腰掛け、果物ナイフを取り出した彼女はするすると器用にリンゴの皮を剥いていく。
 私はその様子を、じっと眺めていた。

 胸の内は苦しかった。実は私は彼女にどうしても言わないといけない事があって、しかし、それは間違いなく彼女を悲しませる事であるから。
 でも、言ってしまうなら、早い方がいいと思った。
 私が告げたのは、自分でもびっくりするくらい淡々とした口調でだったのだと思う。

「昨日医者が言ってたんだけど」
「うん」
「もう長くは持たないだろうって」

 ぴたりと、彼女の手が止まった。中途半端にぶら下がったリンゴの皮が、微かに揺れていた。

「……そう、なんだ」

 彼女の表情に明らかな影が差すのを私は見た。
 ああ、そうだ。今の今まで私の事を信じつづけてくれた彼女だ。
 彼女だって内心じゃ分かっていたはず。私を蝕む病魔は、もうどうにもならない所まで来てるって事なら。
 しかし、それでも。
 それでも彼女は今の今まで信じてくれていたのだ。私が昔みたいに元気に笑える日が来る事を。強く強く。
 そして、今だって……。

「そんな事言わないで、大丈夫よ蓮子。あなたは強い子だもの、きっと……」

 メリーは、一生懸命笑みを作って、私を元気づけようとしてくれる。信じる事を続けようとしてくれている。
 必死に、形振り構わず、ただただ純真に私の事だけを想って。
 でも、彼女がこんなに想ってくれているというのに、私の心が前向きになってくれることは、これっぽっちもなくて。
 申し訳なく思った。
 彼女の純真に応えられない自分の不甲斐なさが。私はすでに病魔への抵抗をすっかり諦めているのだから。

 でも、分かるのだ。
 どれだけ楽観的に自分の肉体を顧みても、もはや私の余命はほんのわずかである事が。
 耐えず私を蝕む、脳を締めつけるような頭痛も、時に指一本動かす事すら苦痛となる倦怠感も、日頃激烈さを増している。
 そして、何より――

「……ったいに、よくなるから」

 ――メリーの必死の励ましを、しかし私は殆ど聞きとる事ができない。

 聴力が、著しく低下していた。
 医者が言うには、難しい病気なのだという。
 変異性致死性アレルギー脳症とか最近呼ばれるようになったこの病気は、最初の報告から二十年程度しか経っていない、歴史の浅い病気だ。
 統計によると民族性別年齢等に関係なく、約百万人に一人の割合で発症する難病。
 現在では当たり前となった合成食品に含まれる、とある物質に対する免疫の過剰反応が原因だと最新の研究で明らかになったとも聞くが。
 しかし、治療法は未だ見つかっていないため、発症した患者は、為す術もなくじわじわと脳を蝕まれ、様々な機能に異常をきたし、そして最後は死に至るのだという。
 報告がある約一千例の中で、生存者は僅か二名。そして三人目はきっと私ではない。
 これ程の病状の進行で、知能障害も、四肢の不随もないのがもはや奇跡なのだと医者は言う。そして、それ以上の奇跡を望むのは難しいとも。

 私は曖昧な笑顔を浮かべ「ごめん」と言った。メリーは言葉を途切れさせ、口をつぐんだ。
 私から逸らした視線。瞳には涙が浮かんでいるようにも見えた。手から滑り落ちたナイフが硬いタイルの上を跳ねたけど、……その音が聞えない。
 しばらくの沈黙を挟んで彼女が口を開く。きっと絞り出すようにだったのだと思う。

「また、来るわね……」

 果物ナイフをバスケットにしまい、俯いたまま彼女はベッドより立ち上がる。
 皿の上には、半分皮を残したリンゴが残されていた。
 背中が、少しずつ遠ざかる。
 病室のドア。ノブに手をかけながら、最後に彼女が振り向いた。

「それでも……」

 紺碧の瞳には、うっすらとまだ涙が残っているようだった。動揺を収めきれない表情。
 しかし、その瞳が湛えているのが悲愴だけでなかったように見えたのは、もしかしたら気のせいでなかったのかもしれない。

「……それでも、私は奇跡を信じているわ」

 真っ白いノイズだけが支配すような世界で、どういう訳か、その台詞だけ不思議と大きく響いた。


◇ ◇ ◇


 奇跡なんて、そう簡単に転がってるものじゃない。
 分かってる。もう私は大人だ。おとぎ話の中のハッピーエンドを信じるあの純真な幼子が如く、ロマンチシズムを無抵抗に肯定するなんて事はもはやできない。
 ……そう、分かっているのよ。
 現実は残酷で、手立てなんて、世界中の誰一人として知らなくて。
 しかし、それでも、来たるべき悲惨な結末をただ諦観して受け入れるなんて、私にはできそうになかった。

 だって、蓮子が死んじゃうのよ? あの知性に溢れ、笑顔が素敵なあの蓮子が。私の唯一無二の親友、宇佐美蓮子が!
 そんなの、受け入れられるもんか!

 理論的とかそういうのを、全部無視して、私はみっともなくも奇跡に縋る。無責任に信じる事をする。
 無力な私にできるのは、それしかないから。

 ……それが、昨日までの私だ。


 
 夢を見ていた。時折見る、不思議な夢だ。
 空を飛ぶ人間や、おそろしい怪物が普通に存在する世界の夢。
 迷い込んだ私はその中をまるで不思議の国のアリスの主人公みたいに訳も分からず彷徨い歩くのだ。

 そこは廃墟であるように見えた。草木も生えない岩山の頂上に建てられた、石灰レンガ造りの朽ちた小屋。穴ぼこの屋根や壁は、もはや本来の役割を果たしていない。
 太陽が眩しく日光を振りまいている。雲は眼下を流れていた。ここは、さながら大河にポツンと浮かぶ小島みたいだった。現実感に乏しい光景。
 開けっぱなしになってるドア、おそるおそる覗いた先。日陰の暗がりにあって、彼女はつかみどころのない笑顔を浮かべながら、安楽椅子にちょこんと腰かけていた。

「あら? お客さんかしら? 珍しい」

 くすくすと、開いた扇子で口元を隠しながら彼女は笑っている。
 整った輪郭に、床まで届きそうな黒の長髪。纏うのは夜色のドレス。
 年の頃は私より二、三若いくらいに見える。
 しかし、そんな幼い容姿に不釣り合いな、底の伺えない声色だった。思わず、ぞくりと背中が震えた。

「初めまして人間の御嬢さん。遠くからようこそ。へぇ……マエリベリー・ハーン。可愛らしい名前ね。わたくしの事は、そうねぇ、妖怪の賢者とでも呼んで頂戴」

 何故名前を知っているとか、どうしてこんな所にとか、そもそもここはどことか、妖怪ってどういう事とか、色んな疑問が一瞬で頭を巡った。
 だが、そんなのはみんな、彼女が放った次の一言で吹き飛んでしまう。

「あらあら、お友達が大変な事になっているみたいですね。可哀想に。私の手にかかれば、あの程度の病魔、簡単にどうにかできてしまうのに」
「いま……何と言いましたか?」
「私なら、あなたのお友達の命を助ける事ができると言いましたの。わたくし、結構万能ですから。だいたいの事は簡単にできてしまうのですわ」

 ぴしゃりと扇子を閉じ、不敵に笑みながら彼女は言った。その、傲岸なまでの自信を湛えた瞳。

 奇跡はここにあったのだと、私はそんな事を思った。
 そうだ、幸運にも私は蓮子を蝕むあの病魔をどうにか出来る可能性を、見つける事ができたのだ。

 ああ、確かに勿論これは夢の中の出来事だ。私の脳内が作り上げた都合のいい幻想だって判断してしまうのは容易い。
 しかし、私にはこれがただの明晰夢ではないと、殆ど確信をしていた。
 彼女の言葉は、どこまでも奥深く、説得力に満ちている。私みたいな二十年ちょっとしか生きていない人間の経験から生み出されるそれであるはずがなかった。
 そうだ。彼女の事は、信じてしまっていい。

「あの……」
「何でしょう?」

 にやにやと意地悪く彼女が歯を覗かせる。
 きっと恐ろしく聡明な彼女だ。私の言いたい事など理解してしまっているに違いない。
 なのにこうやって聞き返してくるあたり……どうやら彼女は相当に難儀な性格であるらしかった。
 しかし、それでも私は頼む事をしないといけない。何しろ千載一遇のチャンスなのだから。

「一つ頼みごとが」
「いやですわ」

 即答だった。私の台詞が言い終わらない内に下された、断固たる拒絶。
 きゅっと唇を噛みしめた。
 胸の内に黒い感情が満ちるのを感じる。しかし、それを抑え、私は問う事をする。

「一体……どうしてですか?」
「こう見えて、私も結構年ですから。最近は動くのが酷く億劫で。つまりはあなたのお友達と同じですわ」

 どこまでが本当かは分からない。しかしよくよく見れば、水分を失いひび割れている彼女の唇。真っ黒く張り付いた隈。白いを通り越して蒼白な顔色。
 笑顔を作っている事さえ、本当は苦しいのかもしれない。……そう、彼女ももう長くないのだ。

 そもそも、これは結局私の我が儘なのは分かっている。
 私が勝手に期待して、それに対して彼女は正当に拒絶をしただけ。彼女に私の願いを聞く義理も利害も無い。
 しかし、それでも諦めきれない私は、縋るようにして手を伸ばす。彼女が動いてくれないと、もはや蓮子を救う手立てはないのだから。

「あなたほどの存在であるなら、いくらでも生き延びる方法などあるのではないですか?」

 絞り出すような声で、私は問う。

「勿論ありますわ。例えば、健康な誰かの肉体を奪ってみましょうか。それで私の枯れかけた寿命は再び息を吹き返すでしょう。
 でも、それをした所でまた同じことの繰り返し。私は排斥され、孤独なままいずれ寿命も尽き、そしてひっそり消失する。
 ええ、つまりはそうう事なのです。
 例えば私が強大なだけでなく、広くに好かれる善良さも所有していたなら、このような事にはならなかったでしょう。
 偏屈さゆえに助けの手も差しのべられず、ただ朽ちて滅する他ない大妖怪。
 まったく以って自業自得。
 しかし、それだというのに、わたくしはそんな生涯を反省するどころか、ますます偏屈でいようとしますの。他人の不幸は蜜の味。
 いくら死に臨んでいると言っても、私の力は未だ強大。指先を少し動かせばそれだけで大概の理を捻じ曲げる事ができます。あなたのお友達の特効薬となるのも容易い事。
 しかし私はその些細な労力を適正に売り払う事はしません。気の向くままに値を釣り上げ、暴利を肯定するのです。
 貴方の親友をどうにかできる手段を持ちながら、私はそれをひけらかす事もなくただ嘲笑い。億劫な生を諦める」

 彼女が嫌われ者な理由はよく分かる。
 そもそも好かれようとしていないのだ。嫌われるよう嫌われるよう生きてきたようですらある。
 しかし、それはどこまで彼女の本心であったのか?
 私もこんな瞳を持っているから少しは分かるのだ。過ぎたる力を世の中は異端と見なす……生きる事がどれだけ難儀だっただろう?

 初めて彼女の瞳を見た。黒曜石を嵌めこんだみたいな闇色の瞳。それで私は理解をしてしまった。
 くすくすと、絶えず彼女が洩らしている笑いは、その実とても渇いたものなのだ。
 だって、瞳の奥の奥が湛える、絶望的にまで深い孤独と寂寥を私は見てしまったのだから。
 あの人を食ったような口ぶりは、その実、上手に生きる事のできなかった自分に対する完全な嘲りだ。

 きっと恐れられるが余り、誰もが綺麗に繕った、本音とは程遠い軽薄な言葉しかかけてくれなかったのだろう。
 誰もが、今まで彼女の事を信じてくれなかったのだろう。

 ああ、そうだ、孤独とは恐ろしいものだ。
 蓮子がいなくなった後の世界を想像すると、それは何処までも灰色で味気ない風景が広がっているだけだった。
 そんな世界で、永い永い時を生きてきたのが彼女だ。胸の中に仕舞われた諦観がどれだけ莫大か、それは想像もできない。

 同情するべきなのかもしれない、私は。彼女の憐れな生き様に。
 しかし、今必要なのは、それではないのだ。
 ぎっと、彼女の瞳をまっすぐ見据える。

 彼女の孤独を突き動かすのに、私はどうすればいい? 何の才能も経験もない私は?
 そんなのたった一つしかない。
 彼女に形振り構わず信じると告げる事だ。本音を包み隠さない事だ。

 動機が自分勝手だろうが、そんなのもはや関係はない。
 ああ、繕いはしない。
 それでも私の為に動いて欲しいと請願する事だ。そのためなら、例え何を捨ててでも彼女を信じ抜くと誓う事だ。

「対価を支払えば……あなたは動いてくれますか?」
「対価?」
「この体を受け取っていただきたい。それであなたは新たな生命を得る事ができる。蓮子を救う事もできる」
「あら? いいのかしら? 新たな肉体を得た私が、約束通りに彼女に手を差し伸べるとも限らないのでは?」
「あなたは応えてくれるはず、必ず……!」

 目を逸らすことなく、私は言い切った。ぴくりと、彼女の表情に一瞬の戸惑いが走ったのを見た。

「あなたは事の重大さを分かっているのかしら? それで彼女が例え生きる事できようとも、その隣にあなたはいる事ができないのですよ?」
「当然理解しています。私は、私の生命と蓮子の生命を等価交換したいのです」
「何故なのですか? 私には、理解できない」

 何故か? その問いに、私は胸に手を当てる。
 蓮子に生きてもらいたい。それは紛うことなき本音だが、果たしてそれだけなのだろうか?
 数秒の思索。そこで私は恐るべき本音を発掘する。

 思わず苦笑をもらした。結局この願いは、どこまでも私の我が儘だ。

「そんなの決まっている……私が悲しみたくないからです。蓮子の死を受け入れるなんて事、私はしたくない。
 だから私は蓮子を救うためなら何でもやる、代償が必要ならなんでも支払う。例えそれで、蓮子が悲しんでも、彼女は生きるべきだ! 私のために!」

 彼女の表情が、ますます難しくなる。
 くすくす笑いは消えていた。思案する目つきは真剣そのものだ。
 そして、数十秒の沈黙を経て、彼女の瞳が再び私に向けられた。

「ねぇ、本来は、軽々しく生命をどうこうするべきではないの。死にゆく者は死ぬのが最も自然だから。
 でも、どういう訳でしょうね、あなたを見てると、もう少しだけ生きてみたいって、そんなことを思ってしまったのです。
 愚直で自分勝手で、何とも醜く……しかし、ああ、そうだわ。そんな風に、まっすぐ目を見て話してくれる人なんて、今まで私の周りにはいなかったのだもの。
 ……いいでしょう。頼られるのも随分と久しい事だしね。あなたの覚悟と欲望に敬意を示し、私は生と死の理を曲げる事に加担しましょう。
 さあ、今日は帰りなさい。あなたたちが、二人でいられる時間はもう少ないわ。
 これからあなたは彼女にとっても酷い事をするんだから、せめて今だけは、隣にいてあげなさい」

 彼女がぱちんと指を鳴らした。途端、空間がぐにゃりと歪み、視界が真っ白になってゆく。どうやら私は覚醒に向かっているらしい。
 最後に見えた彼女の瞳は、びっくりするくらい穏やかで、優しげなそれだった。


◆ ◆ ◆


 デートしようって、メリーが誘ってきたのは、あの時から一週間程が経った日の事だった。

 外出は、意外にもあっさり許可された。最悪、無断で病室から抜け出すつもりでいたのだけど。
 主治医の憐憫を湛えた笑みから推察するに、どうせ助からない私に最後の思い出を残させようという事なんだろう。
 何にしろ、ありがたい事だと思った。

 久しぶりに出歩く街は随分と新鮮に映った。春のぽかぽかな陽気。アスファルトを踏みしめる感触。
 半袖同士で腕をからませる。メリーの素肌は柔らかかった。
 ずっとベッドの上だったから歩くと少し足元がふらつくけど、大きな支障はない。頭痛も今日はそれほど酷くなかった。

 近所の公園でブルーシートを広げて、ビールのプルタブを起こした。小気味よく吹きだす泡。
 二人乾杯をした。味気ない病院食では絶対に味わえない痛快な喉ごし。

 上機嫌にアルコールを消費していく私を、メリーはにこにこと笑って見てくれていた。
 ちらちらと、桃色の花びらが舞う。そう言えば去年もこうやって、メリーと二人花見をしたんだった。
 満開の時を過ぎた桜並木。しかし全てが散ってしまう前にこうやって一緒に飲めてよかったと心から思う。
 墓場まで持って行くのに、十分な思い出だ。
 
 空のビール缶が十本ほど転がる頃になると、日はすっかり傾いてしまっていた。
 べろべろになるまで呑んだのは、本当に久しぶりな事で。もつれる足のまま、メリーに引っ張られるようにして、彼女のアパートに転がり込む。
 そのまま、服を脱ぐ事もせず、二人ベッドに倒れ込んだ。

 酔っ払った時はいつだってこうだった。メリーと一緒にぐったり朝まで眠って。
 目が覚めても、昼過ぎまで怠惰に二人布団の中でくっついていたり。

 ……全てが酷く懐かしく思えた。あの愛すべき時間を、私はもうすぐ失ってしまうのだ。
 そんな事を考えると、涙が出てきそうだったけど、でも、私は今泣くべきではない。それをすると、メリーが可哀想だ。
 私がいなくなった時、もっと泣くのはメリーなのだから。

 今は、最後に一緒にいれてよかったって、喜ぶだけでいいんだ。
 さあ、眠ろうか。メリーの隣だ。それは幸せな夢を見れるに違いない。

 声が聞えない事だけが、酷く残念だった。もう私の耳はまったく使い物にならなくなっていたから。
 それでも、まどろみの中、「おやすみ」とメリーに言うと、彼女も返してくれたのが分かった。きっと「おやすみ」って言ってくれたんだと思う。


◇ ◇ ◇


「――いいえ、『さようなら』よ」

 眠りに落ちた蓮子はすうすうと静かに寝息を立てている。瞼の端から零れていた涙を、そっと指先でぬぐってあげた。
 そして私はベッドから立ち上がり、約束通りに来てくれた彼女と向き合う。
 闇色のドレスと、それよりもさらに深い漆黒の髪が、そっと佇んでいた。

「お別れは、あれでよかったのかしら?」

 彼女が問う。

「十分だわ。蓮子の泣き顔なんて見たくないもの。あの子の幸せな表情だけを瞳の裏に焼き付け、私はここから消え去るのだわ」
「本当に、我が儘なのですねあなたは」

 呆れているのか、笑っているのか、悲しんでいるのか、彼女の表情はいま一つはっきりしないけれど、多分私のする事を肯定しようとしてくれる表情でまちがってないんだと思う。

「最終の確認をします。私は宇佐美蓮子の生命を救う事と引き換えに、あなたの生命を奪う。ただし、今なら引き返す事ができます。彼女の最期を看取るという、あるいは最も自然で、そして美しい結末を選ぶ事できるのです」
「まさか。それをしないために私はあなたと会話をしている」
「私は約束を破るかもしれない。あなたの体だけを頂戴して、そこまでして助けたかったあなたの友を見殺すかもしれない。それも含めて、了承してくれますか?」
「当然。そもそも疑うなんてこと、するはずがない。これから私の体を使わせるあなたなんだから。信頼しているわよ」
「分かりましたわ。私はあなたの望む結末の為、力を振るいましょう。そして、あなたの境界を見る面白い瞳は、私がもう少し便利に使ってあげる」
「うん。そうして頂戴。この瞳のせいで随分と気味悪がられたりもしたけど、おかげで蓮子と仲良くなる事もできた。大切なものだから丁寧に使ってね」
「ええ、勿論ですわ」

 ふうと深呼吸をした。これから死に臨むというのに、気分は不思議と冷静だった。むしろ晴れやかでさえあった。
 ぎゅっと蓮子の手を握り締めた。ぼそりと、寝言が聞こえた。それは私の名前だった。
 名残惜しいような気持ちが押し寄せてきたけど、振り切り、私はこくんと頷いて目配せをする。それが合図となった。

 瞬間、視界が変質した。でたらめな色彩の眩し過ぎる光がびかびかと乱反射している。
 四肢の末端より感覚が無くなっていく、意識も徐々に混濁してゆく。
 マエリベリー・ハーンの意識が喰われているのだ。
 いよいよ私は死ぬけれど。しかし、これで……。
 
 ごめんね蓮子。
 私の決断はきっとあなたを悲しませる事になるけど、でも私も悲しくはなりたくないの。
 一人よがりだって言うならその通りだわ。理解してくれとは言わない。

 ああでも、よかった。これであなたは生きて、私は悲しまなくて済む。幸せだわ蓮子。大切な大切な私の蓮子!

 私という存在が消失する最後の最後に、私は最愛の彼女の名を呼んだ――
 

◆ ◆ ◆


「――蓮子。起きて蓮子」

 明瞭に響いた、余りに懐かしい彼女の声で私は目覚めた。
 見慣れた病室の景色。
 しかし酷く新鮮なように思えたのは、“妙に騒がしい”という、本来私が感じるはずのない現象を確かに鼓膜で感じたからだ。
 聴力が戻っていた。頭痛も倦怠感もない。

 一体私の体に何が起こったのか、状況を飲み込めずきょとんとしていた私だけれど、慌ただしく駆けつけてきた医者が言い放った奇跡の二文字で、理解をした。

「生き延びちゃった、か……」

 医学的にはまったく説明がつかない事だというけれど、私を蝕んでいたあの疾病は、一晩にして消失した。跡形もなく。
 図らずも私は三人目になってしまったらしい。

 メリーのおかげなのかなとか、そんな事を考えてふっと笑う。
 次会ったら、お礼を言おう。誰もが諦めている中たった一人信じ続けてくれた彼女に。
 そして、また一緒にデートするんだ。お酒飲んで、メリーのアパートにお泊まりするんだ。

 窓の外に見える桜並木は、殆ど完全に花びらを散らしていたけれど、それですら今の私には希望に満ちた光景に見える。
 ああ、本当に生きていてよかった。メリーを泣かせなくてよかった。
 
 退院の前に、少し検査をさせて欲しいと医者に言われた。今までお世話になったのだから、それくらいは問題ないだろう。
 準備ができるまでの、暇を持て余すこの待ち時間ですら充実している。
 これほどまで生を謳歌しているのは、生まれて初めてかもしれない。

 ベッドに腰掛けて、子供みたいに足をパタパタさせていた。
 メリーが今の私を見れば、きっとびっくりするだろうか? 想像すると思わず唇が緩んだ。
 早く会いたいなぁとか思っていると、がちゃりと病室のドアが開けられて――。

「メリー!」

 今最も会いたかった彼女は、まるで悲しみを押し殺すような表情をしていて。
 ああ! でもメリー。もうあなたはもうそんな表情をしなくていいの!
 あの致命的な問題は、すっかり解決してしまったのだから!

 喜びのまま抱きしめようと思った。躍るような足取りで彼女に近づき、そして、

「初めまして。宇佐美蓮子」

 強烈な違和感がまずあった。
 澄みきったそのメゾソプラノは、聞き違う事なきメリーのそれ。
 しかし、だというのに。私の足はぴたりと止まってしまった。
 酷い悪寒。ごくりと唾を呑んだ。
 
「あなたは……誰?」

 疑問が口をついた。
 そのやわらかな金の髪も、宝石みたいな瞳も、全てが私が知るメリーなのに、何かが、致命的な何かが異なっている。
 ……ああ、そうだ。メリーはこんなに冷酷な瞳ができる少女だったか? まるで世界の闇と言う闇を全て見てきたかのような。 
 彼女は違う。断じて違う。メリーであるはずがない。

「来るべきか止めるべきか、少し考えたのですが、マエリベリー・ハーンとの約束に責任を負うならば、あなたへの報告が必要だと考え、私はあなたに会いにきました。
 ええ……その通り。私はあなたの愛したマエリベリー・ハーンではありません。同じ姿をした、まったく別の存在です」

 訳が分からなかった。
 メリーの声で私に語りかける、この他人は一体誰だ!?

「どうか落ちついて聞いてください。マエリベリー・ハーンは……あなたの親友は死んだのです。
 肉体だけをここに残し、この世から完全に消失しました」

 聞き捨てならない言葉を聞いた。
 メリーが死んだだって? まさか! そんな事……!
 死にかけていたのは私の方だ。メリーはあんなにも元気だったではないか!
 そんな事、簡単に信じられるはずがないだろう!?

「マエリベリー・ハーンは、言うなればあなたに生命を譲渡したのです。あなたを生かすため、自ら生命を捧げた」

 冷徹にそれは告げられた。
 感情がぐちゃぐちゃになって、頭がどうかなってしまいそうだった。
 メリーが死んだのは私のためだって? そんな馬鹿な話があるか!?

「そんなの、私は望んでない……どうしてよ……」

 動悸が激しくなっていた。言葉は少し掠れていた。
 
「貴方が望んだとか望まないとか、それはこの際重要ではありません。マエリベリー・ハーンが望み、手段として私を信任した。対価を払って。それが全てなのです」
「つまり……お前が殺したのか? 私の蓮子を、殺したのか!? そして殺しただけでなく、亡骸を着こみ、メリーを騙るというのか!?」
「ええ、そういう事になりますわね。しかし、少しだけお話を聞いて下さらない?」
「黙れよ! その表情で私に語りかけるな! その声で私の名前を呼ぶな! その声で私を呼んでいいのはメリーだけだ! 返せよ! 私のメリーを返せよ化け物!」

 もはや平静を保ってられない私の叫び。思わず彼女の胸倉を掴んだ。
 しかし、彼女は動揺を見せる事はなかった。

「正直なところ、一緒にあなたも殺してあげればよかったと思っています。そうすれば二人とも幸せなまま眠る事ができた。
 あなたが悲しんだり泣き喚いたりする事もなく、全てが綺麗に収まった。
 しかし、マエリベリー・ハーンが望んだのはそれではなかったでしょうから。
 それに、今度は、ちょっとは好かれて生きようと思ったのです。だから、約束は可能な限り守ろうと。
 しかし私がそんな風に生きるのは、やっぱり難儀な事みたいね。
 あなたはきっと私を殺したいのでしょう。瞳に満ちる憎しみ、ああ、永い生で私は、何度そんな瞳を見てきたのでしょうか? 
 しかし、軽々しくこの命をあげるのも、正しい事ではないような気がして。
 少し前まで、生きる事すら億劫だったのが私ですし、その価値観の残滓は未だ所有し続けています。
 しかしこの体は、あなたがどれだけ否定しようとも、マエリベリー・ハーンのそれ。
 あなたにここで殺されれば、私に生命を捧げた彼女の意志を踏みにじる事になるでしょうから」

 口調は何処までも真剣だった。
 彼女は遊び半分で私達の関係を掻き回した訳ではないのだ。むしろ、誠実に約束を履行したがあまり、私の憎悪を一身に受けているのだ。
 気付いた途端、手から力が抜けた。
 そう、悪いのは彼女ではなくメリーであり、そして私だ。
 だが、それでもこの胸の内の、彼女に対する攻撃的な感情は無視できない程に大きく……。
 だから、私は目を合わせること無く彼女に囁く。

「消えてちょうだい……」
「よろしいのかしら? もっと酷く罵倒されるものと思っていたのですが」
「それをしたいのを、必死で堪えてるのよ。理解してよ。
 私はあなたを許さない。追いかけてやる。いつか必ず捕まえて、取り戻してやる……。でもそれは今じゃない。だから早く消えて……」
「結構。あなたがそれを選ぶなら、私は尊重しましょう」

 パチンと、彼女が指を鳴らす。瞬間空間が裂けた。
 境界。メリーと一緒に、よく暴いたそれだ。
 ぱっくり開いたそれが、彼女を下半身から喰らうように飲み込んでいった。

「ああ、そうそう。言い忘れるところでした。私が去った後でよいので、どうか泣いてあげて下さい。
 出来る限り大きな声で。そして一生彼女の死を引き摺ってください。それがマエリベリー・ハーンに対する悼みであり、彼女が望んだ事です」
「うるさい。早く消えろ」
「再会の日を、楽しみにしておりますわ」

 そして、彼女の姿が完全に消失する。
 完全に静寂となった病室。白タイルの上、ふらつきながらベッドに倒れ込んだ。
 窓の外には春を謳歌する極彩色達。しかし、それらですら私の眼には全て灰色にみえた。

 ああ、メリー。あなたが残してくれた生命が重いわ。
 私こそが死ぬべきだったのに。泣くべきはあなたであったのに。
 なんて残酷な親友だろうか。私の心が灰色に染まる事を知って、こんな選択をしたのだから。
 私は彼女の死を一生引き摺り、きっと惨めな生涯を送るだろう。
 奇跡を願った彼女のあの声が、いつまでも脳裏で反響していた。
 窓の外で、最後の花びらが、風に攫われ、墜落し、ぬかるみに沈んだ。





 
「優しさほど残酷な感情はないのです。それはいつだって莫大な失望がコインの裏側で。だからこそ私は生を億劫だと思ったし、未だ生に縋りついている」
黒アルビノ
作品情報
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最新
投稿日時:
2010/03/20 23:41:26
更新日時:
2010/03/20 23:41:26
評価:
11/11
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72
SPPOINT:
49
Rate:
1.62
1. 通常ポイント9点 お題ポイント3 ■2010/03/21 05:50:40
この解釈は新しいと思った。老ゆかりんかっこいいぜ……。
こういう自己犠牲はバッドエンドしか引き起こさないハズなのに、何故人はバッドエンドに向かうのか。
皆バッドエンド至上主義なんだとふと思いました。バッドエンド至上主義なんて技があったら誰も使わなさそうだ。
実際は、どうなんだろうなぁ。僕にはこの作品のメリーの性格を想像することしかできません。
2. 通常ポイント7点 お題ポイント4 じろー ■2010/03/27 16:51:20
誰かが死ぬ話は苦手ですね。特に遺されたものが悲しむ結末になるのは、特に苦手です。
個人的にはもっと救いようがある話を期待したいのですが、やはり残酷さを隠して語ることはできないのでしょうかね。
蓮子がこの後、どのように過ごすのかが気になるところです。これは想像の余地があるのでいろいろ邪推をしてしまいますが、巫女にでもなるのかなぁみたいなことをちょっと思いました。
紫が孤独という描写がありましたが、藍や橙のぬくもりを感じてないのか、霊夢や萃香とのかかわりあいはどうなったのかに少し引っかかりを覚えました。それとも、この後この経験から、藍や橙に出会うのですかね?
3. 通常ポイント7点 お題ポイント7 ワタシ ■2010/03/28 02:17:04
秘封の他二作と繋がって見えるだけにますます内容が重く。
「音が聞こえなくなる」という三題に関わりインパクトも大きい設定であれば、
デートシーンではその辺を徹底的に強調するともっと印象に残ったかもしれません。
4. 通常ポイント4点 お題ポイント3 ぶるり ■2010/04/01 18:02:18
 短編にして、この題材。中々であります。
 少々強引ではありますが、真実伝えたい所だけきちんと伝わるような、鋭い文章です。
 まぁ個人的には八雲紫がここまでお人よしに思えない為この点数。

 お題について。
 薬、音、君。一応語句として使ってはいますが、お題としての運用は為されていないです。
5. 通常ポイント6点 お題ポイント4 八重結界 ■2010/04/02 17:13:25
ままならないなあ。一方的な賢者の贈り物を見ているようでした。
6. 通常ポイント8点 お題ポイント4 静かな部屋 ■2010/04/02 20:55:35
【内容のこと】
 「救いたい」って気持ちじゃないんですね、「救われたい」のほうがしっくり来る
 人に何かをしてあげるのは、自分のためとか

 自分のすることを、独りよがりの自己中心的な行為と理解したうえで、結局実行してしまうメリーは、強いのか弱いのか
 自嘲に溢れた、僕の大好きな雰囲気の話でした。
【お題のこと】
 蓮子が「音」を取り戻した! ってことですかね?
あまりお題を重視した作品では内容に感じました。
7. 通常ポイント8点 お題ポイント5 飛び入り魚 ■2010/04/02 21:38:16
 新しい解釈。描写が非常に丁寧で参考になります。
 短い中にも重厚なひと時を過ごすことができました。
8. 通常ポイント4点 お題ポイント2 時計屋 ■2010/04/02 22:45:49
うーん、割とありがちな話で終わってしまったような。
展開にもう少し意外性が欲しかった。
もしくは自己犠牲という行動についてもっと突っ込んだ考察とか。
あくまで私の個人的な好みですが。
9. 通常ポイント5点 お題ポイント5 K.M ■2010/04/02 23:06:51
独善的な愛情と狂気的な契約と……
奇跡はありませんでしたね。あったのは悲劇が形を変えただけ。

「つまりはそうう事なのです」は「そういう事」でしょうか?
10. 通常ポイント7点 お題ポイント7 Ministery ■2010/04/02 23:17:31
何と恐ろしい。妖怪ではなく人間という生き物は。
いや、素晴らしい切り口でした。
11. 通常ポイント7点 お題ポイント5 文鎮 ■2010/04/02 23:25:51
優しさとは何と残酷なことか。うーん、ダーク。ビターチョコレートですね。
あとがきのセリフも、紫が言いそうな言葉です。
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