あくまのいえ

作品集: 最新 投稿日時: 2010/03/20 21:54:40 更新日時: 2010/03/20 21:54:40 評価: 11/11 POINT: 71 SPPOINT: 75 Rate: 1.60
 それはとても深い夜のことだった。



 その時私がずっと見ていたのは暗い暗い黒だったが、それは別に夜空というわけではない。
 単にうつ伏せに倒れ込んで、光のない空に照らされる黒い地べたを見つめ続けているだけだった。
 どうしてそんなことをしているのかと問われれば、それは酷く長くて説明しづらいことのようにも思えたが、短く簡単にしようと思えばそうすることもできた。
 つまりは私は何かに襲われて、そのせいで酷い怪我を負い、最早立ち上がって歩きだす力がないというわけだ。
 体から何かが流れ出て行く感覚があり、同時に段々と体が冷えてきているのがわかる。
 自分ではどうにも動き出せないので、誰かが助けてくれることを少しは期待してもいるのだが、それにしたってここはそんな人通りが期待できる場所ではないし、それには夜が深すぎた。
 さて、私の人生というものは、果たしてここで野垂れ死んで終わってしまうものなのだろうか。
 ぼやけてくる視界で地面を見つめ続けながら、ぼんやりそんなことを思っていると、突然視界がぐるりと動いた。
 動いて捕えたのは、地面よりかは幾分か薄明るい夜空と、そして、私の顔を覗き込む鬼火のような色の髪と紅い瞳。
「ここで楽になるのかしら?」
 視線の先のその口が動いて声を出した。
「それとも」
 次にその口の端が吊り上がり、真っ白く尖った牙が現れるのが見えた。
「どうなったとしても、まだ生きてみたいかい?」
 その時、私はようやく目の前のそれがとても美しい少女であることに気づいた。



 次に私が気がつけば、温かい人工的な光の下にいた。
 首根っこを掴まれているのか、下半身は何かふわふわとした絨毯のようなものの上に座っていて、上半身だけは寝転がることを許されずに吊りあげられた状態のようだ。
 そして、誰かの会話のようなものが、頭上で聞こえ始めた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ああ、ただいま」
「あら、そちらは? 食糧ですか?」
「まさか、私はもうちょっとグルメだよ。ただの行き倒れさ」
「はぁ……? では、何故ここまで?」
「気まぐれ……ま、散歩の途中で見つけてね。介抱してやりなさい」
 その言葉と共に私は投げ捨てられるように地面へと転がった。
 転がった先の視界で、銀色の髪をした少女が訝しげな目で覗き込んでくるのを見つめ返した記憶最後に、私の意識はまた閉じた。



 次の視界は、真っ赤な天井だった。
 それをとりあえずしばらく見つめながら、次にゆっくりと上半身を起してみると、全身に鈍い痛みが走って思わず低く呻く。
「お目覚め?」
 そうすると、いきなり真横から声が聞こえた。驚いて振り向けば、おぼろげながらに見た覚えのある銀髪の少女が寝床の横に座って私を面倒くさそうに見つめていた。
「ここは?」
 私がまずそう問う。
「悪魔の家」
 間髪をいれずに少女が答えた。
「あなた昨晩、ボロボロだったところを気まぐれに拾われたのよ」
 そう言われて、私は自分の体を痛みを感じつつも首を動かして眺めてみる。所々手当のあとや包帯などが巻いてあり、いかにも重症患者といった装いだった。
「あなたが世話を?」
「まあね、私以外に人間の世話が出来そうなのがここにはいないから」
「ありがとう」
「どういたしまして。それに、言いつけられたことでもあるからね」
 苦笑しながらそういう少女に、私は改めて現状把握のための疑問をぶつけてみる。
「言いつけられたっていうのは、私を拾ってくれた」
「ええ」
「青い髪と、白い牙の」
「そう、この家の主、最高権力者……である、我らがお嬢様ね」
 あなた、面白い運してるわ、と、笑みから苦さを取り去って少女は言った。
 おかしな言い回しであったが、確かに命からがら拾われた先が白い牙をした悪魔の家というのは、運が良いのか悪いのか判断の難しいところだった。
「それにまあ、私個人としてはあまり長居はおすすめできないけれど」
「私もそんなにお世話になるつもりはないけれど……」
「そう、けれど、けれどね、仕方のないところもあるわ。傷の具合から見て最低二日はここにいてもらうことになるかしら、今日一日は動けないだろうし」
「二日?」
 驚いて私が問い返したのは、何もそんなに拘束されるのかという文句から出たものではなかった。むしろおぼろげながらに覚えている昨夜の自分のあの傷で、そんな日数で動けるほどに完治するという見立てに対する驚愕だった。
「そう、二日。まあ、ちょっとした奇術をあなたにかけてあるわ。傷が早く治るおまじない」
 それを聞いて、疑うような視線を向ける私に、かわいらしく少女は微笑む。私は嘆息して、最後に聞いておきたいことを切り出すことにした。
「事情は大体わかりました。それで、その……」
「あら、まだ何か?」
「その、お嬢様という人は、私のことを何と……」
 その悪魔が、どういう意図で私を拾ったのか、それが最後にして一番大きな引っかかりであった。
「さっきも言ったけれど、まあただの気まぐれでしょうね。そういう人なの。別に取って食おうってわけじゃないわよ、あなたのことは『客人として扱ってやれ』とのお達しだし、それに」
「それに?」
「『ここがきみの家であるように、くつろいでくれたらいい』と、あなたへの言伝よ」
 それを聞いて私は、随分と心の広い悪魔らしいと感心するよりも早く、何か得体の知れない寒気を感じて、思わず腹の辺りにある毛布を胸まで引き寄せた。



 その日の日が暮れるまでを、私はベッドに横たわったままゆったりと過ごすことになった。
 窓の少ない館らしく、部屋にそれは一つしかなく、かつ十分に大きいとは言えなかったが、そこから零れる光の色で時間を測りながら、穏やかに体を休めた。
 不吉な名前と住人である主に反して、全く静かな館だった。
 銀髪の少女、あれでいてこの家の従者達の長であるらしく、そのメイド長が食事を持ってきてくれる時以外、外で聞こえる音が入り込む方が大きいのではないかというほどだった。
 私自身も本当に寝床の範囲以上に体を動かすことも出来ずに、とりあえずは甘んじてその安静を享受した。
 そうしている間、ふと自分の元の住処と生活についてどうなっているだろうかと考えてみたりもしたが、私がこうしていることを心配するような係累がいるわけでもなし、薄ぼんやりとした思考の流れにかき消されていった。
 そんな風にしながら、私はその日の夜を迎えることになった。



 メイド長が夕食を下げていった後、私は手元のランプを吹き消して、少し早かったが眠ってしまうことにした。
 窓から入る光はもう暗く、明りが消えれば黒く塗りつぶしたような闇が広がった。
 静かに目をつぶり、眠気が訪れるのを待つ。そうしようとしていると、不意に音が聞こえ始めた。
 最初は静かに、そして次に段々と音量を上げて、それは聞こえてきた。
 目をつぶった世界の中に映る音、それは多数の生き物が動く音、笑う音、話す音、生活の音。
 何のことはない、昼の日中に聞こえるはずだったそれらの音が、この夜になって急速にこの家に溢れ出して、私の部屋の扉を抜けてここまで届いているのだった。
 私は思わず上半身だけを起こし、その音の漏れ出る扉を、その向こうを眺めんとするかのように見つめた。
 それは、正直に感じたところ、かなり楽しそうな、心惹かれる物音達だった。私の体が動いたならば、扉を恐る恐る少しだけ開けてみて、その音のする廊下を、部屋を、家を、覗いてみたくなるような。
 しかし、同時に私はまた、昼に感じた得体の知れない不気味な感覚をそこに感じ取ってもいた。体が動かないことを悔しがるような、それとも良かったと思うような、そんな相反する気持ちのまま、私は自分に強いるように寝床へ体を戻す。
 目をつぶるとさらに増幅されたその音が聞こえてきて、私は耳を強く押さえつけるように塞いだ。
 幾分か下がった音を遠くに感じるようにしながら、私はぎゅっと目をつぶり、子供のように丸まって眠りの訪れを待った。



 翌日、日が十分高くなってから、メイド長が食事を持って部屋に訪れた。
「どう? よくは……眠れなかったみたいね」
 食事をもそもそと取りながら、私が瞼の重さを感じながら頷くと、メイド長は苦い笑いをこぼした。
「ごめんなさいね、ここ夜はあんなにうるさくて。でも、日の高い内に活発な悪魔の家というのも笑い種でしょう?」
 同意していいものやらよくわからない問いだったので、曖昧に頷きながら私は食事に没頭した。


 本当にどういう奇術を使ったものやら、昨日一日と今までで、私はメイド長の支えを借りて、少し痛みを感じつつも自分の足で立って動けるところまで回復していた。
 食事を取った後に、少しそうやって手伝ってもらいながら体を動かす練習をして、それから私は寝巻からメイド長の渡してくれた服へ着替えると、部屋の外へと連れ出された。
 渡された服は、メイド長のそれと同じような、黒っぽい紅色をした従者服だった。着替え終えて、連れられて廊下を歩く頃には支えなしで何とか動けるようにまでなっていた。
「今日は一日、ゆっくりでも体を動かしておかないと、明日には帰れないからね。わかるでしょう?」
「それは……わかりますけど。そんなに急いで帰らなくとも、私は」
「明日の今頃には、あなたの方から帰りたいって言ってるはずよ」
 そんな不吉なことを口にしながら、メイド長は言葉に詰まる私にいきなり箒を手渡してきた。
「掃除、出来る?」
「そりゃ、まあ」
「なら、これがいいリハビリ代わりになるわ。無理はしなくていいから、出来る範囲でやってちょうだい」
 そう言われて、私は有無を言わさずこの日の日中を館の掃除へあてがわされることとなった。
 確かに鈍った体を動かすのに最もとは言わないまでも適してはいたし、世話になっている以上私としてもそうすることに文句はなかった。
 しかし、結構長いこと一人で生きてきた中でそれなりに培った、それでもあまり大したことはない私の掃除の腕は、何故だか大いにメイド長を感動させてしまったらしかった。
「いいわね。あなた、すごくいいわ」
 そうしきりに私の目を見つめながら何やらうっとりと語るメイド長に、私は若干の鬱陶しさと疲れを感じながらその日の日没を見ることになった。



 夕食をあてがわれた部屋で一人取ると、私は昨日と同じく明りを落として早々と眠る体勢へ入った。
 単純に一日体を動かしたせいで疲れていたし、昨夜よく眠れなかったからというのもあったが、しかしそこに昨日の音を感じてしまう前にこの眠気へ体を委ねてしまおうという思いがないわけではなかった。
 帳の降りた部屋で寝床に入り、目をつぶる。
 しばらくするとまた昨夜と同じように、あの音が、悪魔の家の素晴らしき夜の暮らしの音が耳裏へ響いてきた。
 半ば予想していたことだけに、私は若干の鼓動の高鳴りを感じつつもまた耳を塞いで丸まり、眠りの神が私を連れ去ってくれるのをじっと待つことにした。
 昨日と同じ音、忙しなく何かが動き続ける音と、笑いとお喋りとかすかに混ざる何かの音楽、そしてまたそれにわけもわからず心中を乱されながらも、耐えようとする私。
 全てが判を押したように昨日と同じだったが、ただ一つだけ違うところがあった。
 私は、私の体だけはその時、昨日と違って自由に動くことが出来たのだ。外的要因のせいでなすすべもなくそれに抗えた時と違い、私は己の意思をここで試されることとなっていた。
 そう頭の隅で意識してみると、その考えはそこに留まりきれずに膨らみ始め、両手をすり抜けて響く音は、まるで遮るものが存在しないかのように音量を上げてきた。
 私は丸まっていた体を解き、両手も耳から外し、そしてゆっくり目を開いて天井を睨む。
 音が、それはもう、扉すら存在しないかのように部屋に満ちていた。悪魔が指揮棒を握り、それに合わせて従者共が奏でるそれは不夜城が蠢きのそれ。
 それをずっと聞き続けながら、気づけば私は立ち上がり、扉へ手をかけていた。夢遊病のように、意識のない動きだった。
 そうしている自分に気づいて、未だ開かれぬ扉を目の前に見つめながら、私はぞくりとこれまでで最大級の怖気を感じて身震いする。
 しかし同時にまた、どうしようもなくその音の紡がれる景色を見てしまいたいと願う自分がいた。そうだ、たとえその程度のこと。
 いや違う、私は本能だろうか、そういうものが背筋に告げていることをわかっていたはずだ。つまりは、それを一度でも確認してしまえば、大変なことになるであろうことを。
 それでも、こことは違う私のこれまでの生活に、私を引きとめてくれるものが一つでもあったのなら、私はその日もベッドへ戻れたはずだった。
 だがしかし、考えがそれに及んだ途端、私は半ば諦めのような心地を抱きながら扉の取っ手を回していた。
 結局のところ一度はあんな風に野垂れ死ぬことを受け入れようとした時点で、私には繋ぎ止めてくれるものなど何もなかったのだから。
 扉は恐ろしいほどに軽く開いて、私はそこにまた喜びと恐ろしさと同時に抱いた。



 夜を夜とも思わぬ明かりの満ちた廊下には、昼には影すら見えなかった数の従者達が忙しなく、それでいて楽しそうに、笑いながら、しゃべりながら、動いていた。
 ある者は物を運び、ある者は連絡を持って走るように、ある者はただ何もせずに、そんな従者達をしばらく呆然と立ったまま見つめて、次に私の足は自然に動き出していた。
 その波の間を縫い、何かに導かれるように私は歩く。日中には開かれていなかった扉達の前を、その内部を一瞬眺めながら通り過ぎ、機能もしていなかった巨大な調理場が戦場の如く働いているのに驚き、そうしながら私はどんどんと歩を速めて、半ば走るようにして行った。
 不夜の生活の中を走りながら、抑えようのない、測りようのない鼓動を抱えたまま、私は遂に従者達が何人も出入りを繰り返す、どこよりも大きな扉の前に立った。
 逡巡は、見上げた一瞬だけだった。従者達の波に従い、私ははっきりとその扉を潜った。
 その先は、この館の、この悪魔の家の、その生活の果てであった、原動とも言うべきものであった。それは、宴の光景だった。
 従者達は料理を運び、酒を運び、そしてまた自らその宴へ加わり、踊り、飲み、音を奏でて狂ったように笑いながら動き回る。夜知らずの饗宴。
 その光景の先に、私は記憶の残滓の姿を見た。宴の渦中に座りながら、まるで最初から待っていたかのような視線を向けてくる、鬼火のような青い髪、吊りあげた口から見える白い牙。
 その口が聞こえない言葉を紡ぐのと同時に、私はその宴の中をふらふらと引き寄せられるように進んで、その姿の目の前へと躍り出ていた。
「やあ、お客人」
 その顔と同じ、笑い混じりの少女悪魔の声が、宴の音を引き裂いて何よりも大きく私の中に響いた。
「傷はもういいのかしら?」
「は、はい、おかげさまで。明日にはここを発つことが出来そうです」
「それは重畳。明日すぐ?」
「え、ええ、帰ります。私は帰ります」
「そんなに必死に繰り返すだなんて、はは、ここの生活は不自由だったかしら?」
「い、いえ、そういうわけでは」
 自分でもわけのわからぬほどに浮ついて、しどろもどろに言葉を続けようとするのを遮って、悪魔の主は指を鳴らし、次の瞬間にはその横へメイド長が現れていた。
「ふふ、冗談だよ。どちらにせよ、『きみの家』としてくつろいでくれていたらいい、私としてはいつまででも。それが出来たのなら」
「は、はい、それはもう、十分」
「なら、こちらには引きとめる理由もないさ。私としては、会えたのがあの時と、そして今日だけというのは寂しくもあるけれど」
 主の差し出す手へ、従者はグラスを手渡し、そこへどろりとした紅い液体を注ぎ入れる。一つが満ちれば、それを片手に持ち替え、もう一つも注いで。
「さあ、それならばこれまでの宿賃代わりでも要求させてもらうとしよう。一献、付き合ってくれるだろうね?」
 その中身に劣らず紅い瞳で見つめる主の差し出すグラスを受け取り、目の前で示すそれに倣って震える手で杯を軽く掲げてから、私は口をつけて一気に呷った。
 その紅い酒の味も何も、わかったものではなかった。ただこれまでに感じたことのない、喉へ引っかかるような潤いを飲み干して、私は急いで頭を下げてグラスを返すと、また曖昧な意識のままその場を後にした。
 宴の音から、生活の音から、夜の音から遠ざかり、いつの間にか部屋に戻って寝床へ入り込み、私は泥沼へ沈むように眠って、そして次の朝を迎えた。



 起床してからすぐに、私は昨日の予告通りに、部屋へやって来たメイド長へ今日すぐにでも出て行く旨を告げた。
 この二日過ごして、案外親しみやすい性格をしていることがわかったメイド長は、やっぱりねと微笑んでから、まるで用意してあったかのようにその支度を整えてくれた。
 今度は普通の服を貰い、最後に彼女と一緒に食事を取って、それだけで私は何か去りがたいものを少し感じて、メイド長へ厚く礼を述べた。
 彼女は普段通りの瀟洒な笑みでそれを受け取ってから、館の正門まで送ってくれた。
 この生活の中で初めて会った、やたら背の高い門番と思しき紅髪の女性と共に手を振って見送ってくれたのが、何やら昨夜のような悪魔の家に似つかわしくない爽やかな光景に思えて、私の心の中に新しい意外な印象を残した。



 そんな風にして、私は悪魔の家での短い逗留を終えて、日中をかけてゆっくりと自分の家へ戻って来た。
 誰もいない自分の家は、出て来た時とさして変わっておらず、せいぜいが少し生活をさぼったつけの埃が漂っているくらいのものだった。
 結局療養していた時と同じように、特にすることもない私は、日が落ちるまでそれの掃除に没頭した。
 脳裏で少し、あの悪魔の家を掃除したことを思い出しながら、私はまた夜を迎えた。



 食事を終えて、また若干の疲れを抱えたまま、私はすぐさま布団へ入ることにした。
 明りを消し、潜り込んで、体を丸める。
 音は聞こえてこなかった。静かな夜だった。耳が痛くなるほどに、音のない夜だった。
 目をつぶろうが、耳を塞ごうが、眠気は一向に訪れてくれないし、その音も聞こえてこない。
 音。そう、音だ。あの音がない。何も聞こえない夜しかない。
 私は目を開き天井を見上げる。どうしてあの音が聞こえないんだ。どうして。そう考えると、だんだんと息苦しくなってくる感覚を覚えた。
 汗が出て、何故だかとても喉が渇く。体は震え、気が狂いそうなほどの静寂だけが耳を通り抜けて行く。
 音が無い。聞こえない。あの不夜が、どうしてここには。
 一瞬ぎゅっと目をつぶってそう思った瞬間、次に気づけば矢も楯もたまらずに私は家を飛び出して、夜の道を走り出していた。



 どこをどう走ったものやら、まるでわからないし、意識に留めておけなかった。
 そうして必死に、自分の体とは思えないような速度で走り抜けて、私はその家の門の前へ来てしまっていた。
 月は紅く空に昇り、その家は血に塗れたように真っ紅な外見でそこに立っていた。
 私がゆらゆらと、明りに引き寄せられる蛾のように門へ近づくと、それに気づいた昼と同じ紅髪の門番が、にっこりと笑って門を開いてくれた。
 それは昼に送り出してくれた時と同じ優しい笑顔のはずなのに、まるで違うもののように私には映ったが、その門を潜り抜けるとすぐさまどうでもいいこととして頭の隅に追いやられた。
 庭を走り抜け、館の中へ入り込み、私が紛れても大して気にも留めずに動き続ける従者の隙間を泳いで、昨夜と、いつもと、同じ音の満ちるその館の中を行く。
 音が聞こえる。聞こえる。一番大きく聞こえる方へ、引き寄せられるように、誘い込まれるように。体はまるで抑えがきかなかった。私は麻薬のように、その不夜の喧騒を、その中心を求めていた。
 大扉を開き、宴の中へ飛び込む。やはりそこには蠢く紅黒い従者達の真ん中で、まるで最初から待っていたように私を見ている悪魔がいた。
「あら、暇を告げたのではなかったかしら」
 そう悪魔が叫べば、海が割れるように従者達はそこへ続く道を開いて私を見た。私はそれをまるで意に介さずに、ゆっくりとその道を通ってそこへ近付いて行く。
「私は……私は……」
「酷い顔だよ、傷は治ったはずだろうにね。まるで中毒患者のようだ、何故ここへ来た?」
 目の前へ到達すると、悪魔は椅子から腰を上げて私に向かい合った。小柄な少女の体躯、白いドレスを翻して。
「汗まみれね、喉が渇いたろう」
「は、はい、渇いています……あのお酒をください、昨夜の紅い……」
「ああ、すぐにでも用意させよう」
 指を鳴らして、従者を呼ぶ。
「そうだ、そしてお前は何故ここへ来た? ああ、ここへ来てしまったね、お前の運命は。静かな夜は寂しいかい?」
「……耐えられません」
「そんな夜など知らない方がよかった?」
「夜など知らなければよかった」
「たとえどうなったとしても、お前は生きたいとあの時願ったね」
 だから、と、芝居がかった風に悪魔は声を張り、くるりと体を一回回した。
「だから、生き延びたお前はどうにかなってしまったのさ。そういう運命に、私が書き換えてやった」
「そうだ、私はどうにかなってしまった」
「そう、どうにかなってしまった。月が昇れば心が騒ぎ、夜が来れば体が躍る、そんな風にお前の体はなり果ててしまった」
「もう普通の夜なんて過ごせない」
「そうだ、過ごせるはずもない。その騒ぐ体と心の悦楽の果てが知りたいかい、それを拝んでみたいと願う?」
「それを願うとしたら、私は」
「私なら、それを見せつけてやれるわ。この悪魔の家に住まう全ての者と同じように、その末席へ加わるなら」
「私は」
「そうしたいならば誓うのさ。跪いて、夜の主へ忠誠を。そうしたならば我らが夜の眷族へ、至上の快楽を私が約束してやろう」
 さあ、と、従者から受け取った紅の満ちるグラスを私へ差し出し、それを慌てて膝をついて受け取る私の耳元へ主は口を寄せる。
「そう、一気に飲み干して」
 促されるままにそうした。昨夜とまるで同じ、引っかかるような潤いと味を。
「この酒が何だかわかるかしら?」
 耳元でくすりという笑い声と共に、それは紡がれる。
「この世で最も尊く、素晴らしい、魔の薬のような酒さ。これはね、人間の血液だよ」
 それを聞いた瞬間、私は自分が何かの境目を今踏み越えてしまったことを、はっきりと意識した。
 主が顔を離して、少し低いところにある私の顔を覗き込むように見つめる。
「さて、これで今日からここが『きみの家』だ」
「私の家ですか」
「ちょっと違うな、私達の家さ。何度もそう言ってきてあげただろう? つまりは」
 空に上るそれに劣らぬくらい紅い月が、二つ並んで浮かんでいる。
「『鬼魅の家』というわけさ」
 その紅い満月が、弓張に歪んだ。
ただ、のたれ死ぬ筈の運命を、別の運命に変えられた可能性もある。 (稗田阿求著『幻想郷縁起』より)
ロの字
作品情報
作品集:
最新
投稿日時:
2010/03/20 21:54:40
更新日時:
2010/03/20 21:54:40
評価:
11/11
POINT:
71
SPPOINT:
75
Rate:
1.60
1. 通常ポイント8点 お題ポイント10 ■2010/03/21 04:23:00
眷属ってこんな簡単に増やすのかなぁ、と思いつつも
三つのお題の使い方が上手くはまっていて、お話自体も綺麗にまとまっていて羨ましいです。
僕も吸血鬼になってみたいなぁ。
2. 通常ポイント7点 お題ポイント9 じろー ■2010/03/27 17:19:15
咲夜はその人間を眷族にしたことに気付かなかったということになるのでしょうか。そうでなければ、2日でここを出るとは言わないでしょうし。ただ、咲夜ほどのものであれば、気づくんじゃないんかな、とも思います。
また、レミリアがそう簡単に自分の眷族を増やすのかどうか、というところも気にかかりました。きまぐれ、といえばそうなんでしょうけど、不死の王たるレミリアが理由なく、そうするかと考えると疑問が残りました。

お題のつかい方はうまかったですね。オチにしっかりと活かされて、三題噺ということがちゃんと伝わってきました。
3. 通常ポイント4点 お題ポイント8 ワタシ ■2010/03/28 00:28:42
お題の使い方、特に音はよくあるものを避けつつうまい使い方だなと思いました。
セリフと地の文の間に改行がないのもあってか、本文がちょっと読みづらかったです。
一人称視点としてはちょっと描写が冗長なのもあるかもですが、この辺は個人の主観なので話半分で。
4. 通常ポイント6点 お題ポイント4 藤村流 ■2010/03/30 16:05:04
 羨ましいような、そうでもないようなお話。
 運命を操るってこういうことなのかなぁ、と気まぐれなお嬢様の上位者ぷりに感服致しました。
 悪魔の家の求人はこんなふうに行われるのかしら、とか。
5. 通常ポイント8点 お題ポイント7 ぶるり ■2010/04/01 17:58:04
 上手なショートショートという印象を受けました。
 主人公の素性ははっきりと書かず、だけど我々読者に近い存在にする事で暗黙の内に感情移入を可能にする。
 非日常に染まっていく主人公の有様を、しっかり味わう事が出来ました。
 
 お題について。
 「音」、「薬」、そして「鬼魅」。
 とても印象深く、三つの要素が絡みあって主人公は非日常に墜ちる。
 軸となり、印象深く、墜ちていく。
 手放しで絶賛したいです。素晴らしい。
6. 通常ポイント5点 お題ポイント4 八重結界 ■2010/04/02 14:48:11
あとがきで、ああなるほどと唸ってしまった。
こうして紅魔館の住人は増えていくのですね。
7. 通常ポイント6点 お題ポイント6 静かな部屋 ■2010/04/02 20:43:39
【内容のこと】
 「鬼魅の家」ねえ。京極夏彦のタイトルみたい。
 お嬢さま、気まぐれにも程があるぞ
 ラストの焦燥感が、見事に表れていて良かった。
【お題のこと】
「きみ」については、「無理やりだった」というより、「そういうことか!」という驚きが先に来ました。「鬼に魅せられる家」かあ。行きたいなあ
8. 通常ポイント8点 お題ポイント10 飛び入り魚 ■2010/04/02 21:43:11
 お題が満遍なくうまく使われているのが好きです。バランスって大事。
 何とも妖しい雰囲気で楽しめます。
 お嬢がどこか色っぽいのは気のせいじゃないはず。
9. 通常ポイント6点 お題ポイント5 時計屋 ■2010/04/02 22:29:12
紅魔館が悪魔の館として描かれているのは、なんだか逆に新鮮な気すらしますね。
一人の人間が魔に魅入られていく、その過程がしっかり書かれていて、読み応えがありました。
10. 通常ポイント6点 お題ポイント4 K.M ■2010/04/02 22:57:39
運命は操られて……ぞっとする話ですね。
11. 通常ポイント7点 お題ポイント8 パレット ■2010/04/02 23:42:27
申し訳ありません、時間が差し迫ってますので感想は後ほど……。
名前 メール
評価 通常ポイント
お題ポイント
パスワード
<< 作品集に戻る
作品の編集 コメントの削除
番号 パスワード