『どんどろどろ』

作品集: 最新 投稿日時: 2010/03/18 18:35:03 更新日時: 2010/04/04 13:00:42 評価: 8/9 POINT: 49 SPPOINT: 42 Rate: 1.64
 木枯らしが吹いて、大層寒い一日だった。

 冬だった。しかし雪はなく、太陽も分厚い雲の向こうに隠れて。なんとも気が滅入る一日だった。ましてや幻想郷は東の果て、博麗神社に続く石段はといえば、あんまり灰色過ぎて人っ子一人通らないのも納得できる陰鬱さだった。

 その日、その道を一匹の猫が下っていた。二尾を揺らして歩く、いわゆる妖怪変化の類である。黒い毛並みに血で塗ったような紅色が浮かんでいて、平時であればなんとも不気味だと思うものだろうが、この退屈な灰色の上では逆に鮮やかに映る。

 この猫、名を火焔猫燐という――本人はお燐と呼ばれることを好む――火車である。地底の旧地獄を住処とする飼い猫だが、地底への穴が開かれた今では、たまに地上へと上がっては博麗神社に遊びに来る。

 お燐は家路についていた。冬の旧地獄は雪が降る程度には寒くなるが、それは染み入るような寒さであり、奪い取られるような寒さではない。木枯らしが吹くたびに彼女の体はぶるりと震え、地霊殿の暖かい床を想わすにはいられなかった。その日、お燐は最速で家路を駆け抜けたのだ。







 そうして、いつも通っている風穴を抜けた頃には汗ばむほどに体が温まっていた。地底に潜れば風も届かない。お燐はいったん立ち止まって一息つくことにした。顔を上げると、薄暗い岩肌が頭上を覆っている。この光景だって陰気には違いないが、生来地底で生活してきたお燐にとっては、さっきまでの灰色の空よりはよほど好ましく思える。

 ひゅるりと、一風がお燐を追い越していく。あゝ寒い。木枯らしなんて、冷たいだけだ。早く帰ろう。お燐が思ったその時だった。

「ねえ、そこ行くきみ」

 呼び止める声の方にお燐が顔を向けると、そこには人型が立っていた。白い仮面をつけたそれは、表情も無くお燐に話しかけてきた。

「こんにちは、かわいらしいお嬢さん。ちょいとお話よろしいかね」

「……何だい。ええと、お兄さん?」

 お燐は人型をまじまじと見つめたが、人型が男なのか女なのかもわからなかった。声はやたらとはきはきしていたが、高くもなく低くもなかった。紐で束ねた髪は長く、男とも女とも取れる。背丈は人化したお燐より頭が一つ……いや二つ分高い。女にしては背が高いが、男にしては手足が細すぎた。

 かといって中性的という感じもしなかった。というのも、人型がしている仮面というのが、何の人相も紋様もない無地の仮面なのだ。これに比べたら能面のほうがよほど愛嬌があるだろう。お燐には、その人型が無機質な針金細工か何かのように思われた。

「いや、どちらでも構わないよ。私達妖怪には男も女もないものが多いだろう」

 あゝやはり妖怪だったかと、お燐はかえって安心した。妖怪よりも妖怪じみた人間のほうがよほどおっかないと経験で学んでいたからだ。

 もしかしたら、人に化けるのがまだ上手くない妖怪なのかもしれない。

「じゃあお兄さんと呼ぶね」

 話をするなら人の姿のほうがよいかと、お燐はどろんと少女の姿に化けた。にこにこ微笑む、紅毛をおさげにした少女の顔。

「思ったとおり。かわいらしいお嬢さん」

 呼び止めてすまないねと、人型は仰々しく一礼をして言った。紳士然とした振る舞いだったが、それをしているのが針金細工なのがどこか可笑しく、いいよ別にと応えたお燐は思わず笑みを零していた。

「あたいに何か用?」

「うん。きみは旧都の妖怪なのかな?」

「旧都といえば旧都だね。あたいはお燐。地霊殿の火車だよ」

「地霊殿! 地霊殿というと、さとり妖怪が住んでいるという、あの?」

「そうだよ。あたいの飼い主は怨霊も怯むさとり妖怪さ」

「本当かい! あゝ何という僥倖!」

 彼はばっと腕を広げて天を仰いだ。空も見えない地底ではそれが滑稽で、いよいよ芝居じみている。この妖怪は“演劇かぶれ”という奴なのかもしれない。

 しかし、とお燐は思った。地霊殿に用があるという妖怪というのは滅多にいない。なにせそこに住んでいるのは物言わぬペット達と――自分の主人にこういうのも何だが――地獄一の嫌われ者だけである。そんなところにわざわざ赴く者と言えば……。

「あ、わかった。お兄さん、旧地獄観光に来たってクチでしょ」

地底が開放されてからすぐは多くの酔狂な地上の妖怪が、旧地獄見物のために地底にやって来た。地底と地上の境界を守る橋姫などは「これじゃ妬みきれないじゃない」と悲鳴を上げていたくらいに。

 あれから一年程度経った今では、来客数もだいぶ落ち着いているが、零にはなっていない。そして、その中でも特にのんきで好奇心旺盛な一部が地霊殿を拝みに来るのだ。

 もちろん中には入らない。遠巻きに眺めるだけである。とはいえ、自分の住処が観光名所になっているのはどこか誇らしくお燐には感じられるのだった。

「うんうん、なら地霊殿は是非見るべきだよ。うちのステンドグラスは他じゃあお目にかかれない……」

「ああいや、違うんだ、きみ」

 息巻くお燐を遮って、人型は言う。

「私は、そのさとり妖怪に会いたくてここまで来たのだ」

 お燐は驚いた。まさか本当に本当の意味で地霊殿に用があるとは。この妖怪、さとり妖怪をみくびっているか、それともよほどの素っ頓狂かに違いない。お燐はついまじまじとその顔を見つめてしまったが、すぐにそれが些か失礼であることに思い至り、慌てて眼を逸らした。

 人型は、かまわず続ける。

「しかし地底と言うのは忌み嫌われた恐ろしい妖怪の住む魔境だと聞く。私のような木っ端の妖怪では、地底行脚も心許無い。せめて案内が欲しいところと、話しやすそうな地底の妖怪をこうしてここで待っていたところなのだ。けれどもけれども、全く誰も通らない。ところで、地上はだいぶ寒いようだね。ここまで吹き付ける冬風で、ほら、手先もこんなに冷たくなって。もう如何ともしがたかったのだ。あゝ今日はもう諦めようかという思いがよぎったその時だ、きみが私の前に現れたのは。しかも話を聞くに、地霊殿の住人だそうじゃないか。これを僥倖と言わずなんと言うのか。天は私を見捨ててはいなかった」

 そこまで一息に喋った人型は、恭しく頭を下げて言った。

「ねえ、きみ。私を地霊殿まで案内してはもらえないかね」

「うん、いいよ」

 それに対してお燐は即答である。地霊殿のペットは躾の行き届いたペットであり、地霊殿の客人が困っているのを見過ごすような真似はしないものだ。

 それにお燐は個人的にも、この妖怪に興味が湧いていた。この妖怪が持つ、さとり妖怪に聞きたいこととは一体何なのだろうか。好奇心は猫をも殺すと言うが、生憎お燐はただの猫ではない、火車だった。

「あゝ有難う。有難う、きみ」

「いいよいいよ。じゃあ、さっそく行こうか。ここは寒い。早く行こう」

 お燐は人型の手を取った。さっきの口上は誇張ではなかった。温かみの無い、冷え切った手だった。こんなにも柔らかな手なのに。

「うん、行こう。いざ地霊殿へ。いざや、いざや」

 得体の知れない、でも面白い奴。きっと悪い奴じゃあない。幻想郷はこういった手合いがどうも多い。







 こうして、お燐と人型は手をつなぎながら、地霊殿へと歩いていった。通いなれた家路も、道連れがいるだけで楽しくなってくるものだ。

 途中で土蜘蛛や釣瓶落としに会った。軽く挨拶をするお燐に対して、人型はやはり芝居掛かった挨拶をした。陽気な土蜘蛛なんかは面白がってけらけらと笑っていたが、内気な釣瓶落としなんかは反応に困って縮こまっていた。それを見て人型が余計に慌てふためくものだから、ついには桶の中に隠れてしまった。傍から見れば喜劇である。

 人型の表情は仮面で見えないが、その感情は身振り手振り口振りで嫌と言うほど伝わってくるので気にならなかった。人型の言うことはいちいち劇的で、少々口上が長いことを加味してもお燐を飽きさせなかった。







 道中、橋姫と会ったときのことである。

 今日も今日とて変わらず不満そうに橋に佇む橋姫に、人型は言った。

「御機嫌ようお嬢さん。どうしたんだい、そんな『どんどろどろ』とした顔をして。何か嫌なことでもあったのかしら」

「はあ?」と橋姫が面食らったのも無理は無い。『どんどろどろ』なんて表現、お燐だって聞いたことが無い。

 なんにせよ、橋姫はあまりよくない表現であると受け取ったらしい。

「『どんどろどろ』ですって? 私の顔がそんなに可笑しいって。ふん、どうせ私はいつもこんな顔よ。橋姫だからね。私を笑う暇があるならさっさと通り過ぎなさいよ」

 橋姫にぷいとそっぽを向かれてしまっても、人型は最後まで人型であった。

「可笑しいだなんて、そんな風には思っていないのだが。機嫌を損ねてしまったようだ。大変失礼をした。それでは、私達はこれで。御機嫌ようお嬢さん」

 ここまでくるとむしろ慇懃無礼の感さえあった。お燐はごめんよと小さく頭を下げながら、橋を後にした。







 そうして橋が見えなくなるまで進んだところで、

「お兄さん。『どんどろどろ』ってのは一体何のことだい?」

 お燐が訊ねたところ、

「ああ、あれはあの人の“顔の音”だよ」

 人型の答えはこうであった。

“顔の音”だって。いよいよこの妖怪の言動も酔狂と言う域を超えてきたなとお燐は思いつつも、また訊ねる。

「“顔の音”って……『くすり』とか、『にっこり』とか、そういうの?」

「いいや違うよ。それはただの表現であって、そういう音が聞こえるわけじゃないよね。“顔の音”は“顔の音”さ。笑えば笑顔の音がするし、泣けば泣き顔の音がする。怒っていれば怒り顔の音がするだろうね。きみは聞いたことがないかい?」

「そんなの、あたいは聞いたことないよ」

「……そうか。残念だ」

 人型は大きく肩を落としてふうと溜息をついた。

「いや、でもそれが普通なのだろうね。私も私以外にこれを聞いたと言う人と会ったことが無いのだ。この音は私にしか聞こえない音なのかもしれない。でも、聞こえるのだから仕方ない」

「そういうもんかねえ。でも『どんどろどろ』ってのもあんまりな音じゃないか。橋姫さん、きっと臍を曲げちゃったよ。当分あたい、あそこを通るたびに嫌な顔されちまうよ」

「むむむ、それはいけない。では帰り道に私から橋姫殿に弁解しよう」

 真面目腐って人型は言うが、お燐は不安である。この人型、やはり幻想郷の住人である。
「今度は『どんどろどろ』なんて言っちゃ駄目だよ」

「もちろんだとも。文句はもう決めてあるのだ。やあお嬢さん、先ほどは失礼した。私が言いたかったのは、笑ったほうがきっと奇麗だということなのだ。貴方の笑顔は『しゃらさらしゃ』といったような澄んだ音がすると思うのだけれど、どうだろう。すこし聞かせてもらえまいか……どうだい、これなら大丈夫だろう?」

 まるで口説き文句のようではあったが、やはりよくわからない“顔の音”とやらのせいでどうにもふざけているように聞こえてしまう。

「何それ。“顔の音”じゃなくって、普通に顔見て奇麗だよって言えばいいじゃないか」

「むう。しかし、私はものが見えないから、それを言っては嘘になってしまう。嘘は、いけない。そうだろう?」

 なんと、盲目だったとは。またまた驚いたお燐だったが、すぐにいやいやそれはおかしいと思い直した。

「見えないって、そんなわけないじゃないか。お兄さん、初めに私のことかわいらしいお嬢さんって言ったじゃないか」

 自分で言うことではないなあと気付いたのは、言った後のことである。

「確かに言った。きみの“顔の音”は『こんころかん』という音だったよ。私はものが見えないから音で判断する。その点、うん、君の音はとても小気味の良くてかわいらしい音だった」

「む……で、でも。あのときはあたい猫だったよ」

「私から言わせれば、猫でも人でも顔は顔だよ。ちゃんと喜怒哀楽、そして美醜があるものさ。きみは猫の姿でも人の姿でもかわいらしいよ」

「……あ、ありがとう」

 かわいらしいかわいらしいと言われて悪い気のする少女はいない。しかし、『こんころかん』なんて言われても良いのか悪いのか判然としないから、お燐はいまいち素直に喜べなかった。







 二人が地霊殿に着いたのは、もう外では日が落ちてしまった頃合だった。ひとまず人型をエントランスに残し、お燐は主人がいるであろうロビーに走った。

「ただいま帰りました」

「あら、お帰りなさいお燐」

 お燐の主人、古明地さとりは本を読んでいたところのようだった。種族の性とでもいうのか、さとりは常に気だるげで厭世的である。そのために、どうしても一人薄暗い地霊殿でソファに座りながら読書をしている様がしっくりきてしまう。

 しかし、表だって言わないだけで、主人はきっと寂しくて退屈しているに違いないのだ。
「さとり様。お客様が見えています」

「……お客様? 私に?」

「はい、さとり様にです」

「ふうん、そう……」

 さとりの第三の目がぎょろりとお燐を見つめる。心を覗くこの視線が、お燐はどうも苦手だった。そう思っていることも主人には丸わかりなのだろうけれど。しかし思ってしまうのは仕方が無い。

「……なるほど。これはまた、酔狂な人はいるものね」

 さとりはすっと立ち上がると、テーブルのほうに向かってしまった。

 これはやってしまったか、とお燐は思った。話し相手にと思って連れてきたが、あまりにも変人過ぎたか。もしかして、機嫌を損ねてしまったのかも。どうしようどうしよう。

「はい。いやその、ええと。どうしましょう……?」

 恐縮してしまったお燐を見て――覗き見て――さとりは静かに言った。

「いいわ。ここにお連れして。それから、お茶の用意をお願いね」

 それを聞いてお燐は「はいわかりました!」と尻尾を立ち上げながらエントランスに駆け戻った。







 やったやった! さとり様が笑った!――可愛い飼い猫の背中を見送りながら、古明地さとりは人知れず微笑する……。







 さて、人型がさとり妖怪に訊きたかったこととはなんだったのか。

 それは、自分が聞く“顔の音”をより上手く表現したいので知恵を借りたいと言うことであった。

 なにせ“顔の音”は人型にしか聞こえないから、誰にも相談の仕様がない。しかし、さとり妖怪ならば自分の心を通して同じ音を聞けるはずだと思ったのである。

 なるほど、確かにそれならさとり妖怪は適任である。なんやかんやで主人も楽しそうに話しているし、よかったよかったとお燐も最初は思っていた。

 しかし、今では泣きそうである。

「うん、そう。いいよきみ」

「はい、お燐。表情そのままね」

「ふえーん」

 というのも、“顔の音”の見本として百面相をやらされているからだ。二人にじろじろと顔を見られて恥ずかしいやら何やらで、もう顔から火でも噴き出そうだった。

「どうでしょうかな、さとり殿。この音は」

「ふむ、そうですね……『ほうほろほろ』というのはどうでしょうか」

「ふむ! なるほど。私は『ほっほろほろ』のように思っていたのですが、そちらのほうが聞こえが良さそうだ。では、きみ、今度は……怒っている風だけれど実はそれはポーズで本当は好きで好きでしょうがないといったような表情をしてくれ」

「えー。そんなの、どんな顔をすればいいのかわかんないよう」

「ならお燐、心の中で好きで好きでしょうがない相手をまず思い浮かべなさい」

「ああはいわかりました……って、さとり様心覗くじゃないですか! 嫌ですよ!」

「あらばれちゃった」

「ばれちゃったじゃないですよ! うえーん。今日のさとり様はいじわるだー」

 終始こんな感じの遣り取りが、もう一刻は続いている。

「ああ泣かないでお燐。貴方の愛は、確かに伝わったから」

「ふうむ。この音、なんとも心地良い響きだ……さとり殿、本当に良いペットをお持ちですな」

「ええそれはもう、自慢のペットですから。ああお燐、今思っている人に対して『か、勘違いしないでよね!?』と心の中で言ってみて頂戴」

「うにゃーん」

 さとり様も仮面をつければいいのに、とお燐は思った。そんなに、にやにやするなんて、ひどいじゃないか。

 もちろん、そんな考えもさとりはお見通しであるのだが。

「にやにや」

 うにゃーんと猫の鳴き声。ここは旧地獄、地霊殿である。







“顔の音”談義は、お燐が泣きべそをかき始めて、ようやくお開きとなった。人型はぐずるお燐とそれをあやすさとりに仰々しく礼を言って、一人地上に帰っていった。

「ごめんなさいね、お燐。少し、悪ふざけが過ぎちゃった」

 拗ねて猫の姿に戻ったお燐の背を撫でながら、さとりは優しく言った。

「でも、今日は本当に楽しかった。あんなに人と話したのは久しぶりだわ。ありがとう、お燐」

 さとり様は卑怯だとお燐は思う。古明地さとりがそう言えば、自分はどんなことでも許してしまうことをきっと知っている。知っていながらそう言うのだ。なんとずるいのだろう。でも、そんな主が好きなのは他でもない自分なのだ。心情というものは儘ならないものである。

 しかし、そんな不条理も、主人の膝の温もりで溶けていく。

「さとり様」

「なあに、お燐」

「さとり様の顔は、どんな音がしたんですか」

「……『にやにや』って音じゃないわよ」

「そんなに怒らないで」とさとりは苦笑しながら、かつおぶしをお燐にあげた。それでにゃーんと鳴いてしまうのは、お燐の怒りが浅いからではない、猫の悲しい性である。

「確か『ひゅうつほう』という音だったわ」

「……本当ですか?」

「もちろん厳密には違うわ。響きとしては笛の音に近かったかしら。なんであれ、どんなに言葉を工夫しても音を完全に表現することは出来ないわ」

「それって……なんだか、悲しいですね」

 お燐は思わず呟いていた。あの人型は、今頃は橋姫に可笑しな口説き文句でも述べているだろうか。橋姫はまた変なことを言われて、きっと心底嫌そうな顔をしているのだろう。人型にとってそれは出来うる限りの誠実な言葉なのに、そうとわかるのは恐らくこの世でさとり妖怪だけなのだ。

 悪いことをしたなと、お燐は後悔した。人に物事を上手く伝えられないもどかしさを自分はよく知っているはずなのに。『どんどろどろ』なんて言っちゃ駄目だよ、なんて、ひどい言い草じゃあなかったか……。

「お燐」

 さとりは膝のお燐をそっと持ち上げ、抱きしめた。

「優しい子。でも、そんな風に自分を責めては駄目よ」

「でも、さとり様、あたい」

「あの人はとても喜んでいたわ。楽しかった。嬉しかった。お燐と会えてよかった、ありがとうって、心の中で何度も言ってた」

 それを聞いて、お燐は涙が出そうだった。こんなにも私達の気持ちをわかってくれる人がいるのだ。そんな人がいるだけで、私達はこんなにも救われるのだ。

 ならばきっとあの人型も、この暖かさを感じられたに違いないのだ。

「あの人、笑って、いたんですね。仮面でわからなかったけど」

「――ええ、そうよ」

 お燐は安心してそっと眼を閉じた。お燐には笑顔の音が聞こえない。辺りは静かで、意識がぬるま湯のような微睡に沈んでいった。







 何処かで『どんどろどろ』と音がした気がする。





















「あの人、笑って、いたんですね。仮面でわからなかったけど」

 古明地さとりは愛しげに、しかしきついくらいに強くお燐を抱きしめた。決して、お燐に自分の顔を見られないように。

 そうして初めて、古明地さとりは微笑するのだった。

「――ええ、そうよ」

 ふと思った。この状態からでもお燐の――嫌われ者の自分を慕ってくれる、健気な者の――“顔の音”は聞こえるのだろうか。そう思うと、あの誠実なのっぺらぼうが少し羨ましく思えた。

 お燐。可愛い子。心を読めるさとり妖怪だからわかる。その純真さが、彼女が何をするより早く、何を言うより確かに。

 しかし今、古明地さとりはその愛しい者を真正面から見つめることすら出来ないのだ……眩しすぎて。

「でもね、もし気になるというのなら……」

 お燐はもう眠ってしまうようだ。意識がすうっと無意識に沈んでいくのが見える。だが、古明地さとりは言葉を続けた。ここから先はただの自慰だと理解していた。

「今度会った時、あの人にそう言ってあげなさい」

 これを聞いても貴方には何がなんだかわからないだろう。貴方は彼が仮面をする理由を知らないのですから……ですが貴方がそう言えば、彼は喜ぶに決まっているのですよ。さとり妖怪である私にはわかるのです。彼が何かするより早く、何も言わなくとも確かに。



 あゝなんて打算に塗れた情だろう! これは断じて優しさなどではない。思い遣りですらない――。



 古明地さとりは愛しげに、きついくらいに強くお燐を抱きしめる。決して、お燐に自分の顔を見られないように。

「きっと喜ぶわ」

 不可知への愛しさとそれを弄ぶ卑しさを同時に感じながら、古明地さとりは人知れず微笑する……。







 何処かで『どんどろどろ』と音がした気がする。
無い笑顔は見えない。では、見えない笑顔は?

理由はそれだけです。



追記

皆様、ぷちこんぺお疲れ様でした。そして私の作品を読んでくださった方、評価してくださった方、まことに有難うございました。拙い作品ではありましたが、少しでも喜んでいただけたなら幸いです。



さて、頂いたコメントを見ると内容がよくわからなかった方もいるようなので(これは純粋に自分の力不足です)、以下に裏設定含めて解説を。



今回のテーマは「わかる人にしかわからない」でした。



まず人型ですが、彼は妖怪のっぺらぼうです。顔がないことをコンプレックスにしており、それを隠すため仮面をつけています。無い笑顔は見えない。のっぺらぼうに笑顔はありません。ですが、仮面をしていれば無いかどうかもわかりません。ですので、仮面をつけているのっぺらぼうは仮面をつけた私達とほとんど同じ条件下にあるといえます。人型がやけに仰々しいのは、できるかぎり私達のような者に近い状態で、表情に頼らず感情を伝えようとしているからです。仮面は無地ですので表情が無いのは変わらないのですが、それは自分を偽りたくないという誠実な心の表れでもあります。

文中にあるように顔の音はのっぺらぼうにしか聞こえませんから、私達がそれを理解することは出来ません。『どんどろどろ』という音も、その表情から聞こえる音はそういう音であるとしかいいようがありません。私達は同じ感覚器を持っているので互いに共感しやすいですが、異なる感覚器をもつ者に共感することはとても難しいでしょう。

それを可能としているのがさとり妖怪です。さとりには顔の音が、正確には彼が聞いた顔の音が、聞こえます。そういう意味では、確かにさとりは彼の唯一と言っていい理解者と言えるでしょう。

では、さとりの理解者はいるでしょうか。まあ、いないでしょうね。一方的に心が読めるという優位は、彼女から対等という立ち位置を奪っているように思います。また、相手の望むことがすぐにわかるので、思い遣るということもできません。彼女は考える必要がなく、ただ機械の様に言外の望みを叶えているだけです。彼はもちろん笑ってなんかいませんが、彼の望みを知っているさとりはお燐に嘘をつきます。誰も傷つかない、さとりにしかつけなかった嘘です。

そういう意味でさとり妖怪は便利な存在ですが、さとりはその利便性だけでお燐たちを縛っていることをコンプレックスに思っています。お燐はあくまでペットであり、だからこそ距離を置いてしまうときがある。彼女はちゃんと笑うことが出来ますが、微笑するときは人知れずこっそりと、です。

のっぺらぼうは見えない笑顔で私達に近づこうとしています。それに対して、さとりのはいわば見せない笑顔で、私達と距離を縮めることができていません。そしてその両方が、お燐には見えていない。この三者の関係が今作の肝でした。



さとりは真正面から思いを伝えようとする“健全な”のっぺらぼうがうらやましく思いました。しかしその感情が嫉妬なのかどうかはわかりませんよ? 『どんどろどろ』とした顔の下にあるのが嫉妬の感情かどうかなんてわかりませんから。わかるとしたら……そう、さとり妖怪くらいですかね。
名前が無い程度の能力
作品情報
作品集:
最新
投稿日時:
2010/03/18 18:35:03
更新日時:
2010/04/04 13:00:42
評価:
8/9
POINT:
49
SPPOINT:
42
Rate:
1.64
1. フリーレス ■2010/03/21 02:57:37
頭が足りずによくわかりませんでした
さとりが人型に色々言われたのか、人型の顔の音は常に最悪級ってことなのか。
顔の音を読む妖怪というのは面白い発想だと思います。羨ましいです。
2. 通常ポイント7点 お題ポイント5 じろー ■2010/03/25 16:38:02
仮面の人型がさとりを訪ねた理由が、さらっとしすぎて思わず読み飛ばしてしまうぐらいなので、もう少し膨らませたら、また違った味わい方ができる気がします。

顔の音を表現するというのはおもしかったです。お燐をいぢめてるのはにやにやしながらほほえましい気分になりました。
ただ、あまりなじみのないフレーズなので、たとえば、どんどろどろですが、どのようなニュアンスで使われたのかが気になるところであります。最後には繰り返しをされていますが、あの響きの解説をしてくれると嬉しく思います。
3. 通常ポイント6点 お題ポイント2 ワタシ ■2010/03/26 00:13:56
お燐かわいい。
顔の音というフレーズは面白いのですが、他二題も含めてお題の面ではちょっと苦しいかなーと思いました。
4. 通常ポイント6点 お題ポイント7 静かな部屋 ■2010/04/02 11:51:42
【内容のこと】
 見えない笑顔は、ないのと同じ? 表情がない? 自分の気持ちが伝わらない? それでも、他の人の喜怒哀楽はそれこそ一方的に伝わるなら、『どんどろどろ』という嫉妬の気持ちを、誰かに解ってもらいたい?
……何を言いたいのか解らなくなってきた。
 こいしと絡めても面白そうかなあ。

【お題のこと】
「音」の使い方がいいと思いました。独創的で。奇を衒ってるように見えて意外と設定がしっかりしてるように思えるし。
「くすり」は笑い方の例えのみ……かな?
「きみ」は「お兄さん」の二人称

「音」のみでもこれくらいの評価を差し上げてもいいのではないか
5. 通常ポイント6点 お題ポイント5 八重結界 ■2010/04/02 13:26:40
顔の音という発想には驚きました。そういう解釈の仕方もあるのかと。
そしてお燐の可愛さに悶え苦しむ。
6. 通常ポイント6点 お題ポイント5 ぶるり ■2010/04/02 18:12:24
息が詰まるような世界、面白かったです。
おりんりん!
7. 通常ポイント7点 お題ポイント4 飛び入り魚 ■2010/04/02 21:49:36
 のっぺらぼうだから、表情を見せることができない。
 表情に憧れていたのっぺらぼうでも、きちんと笑顔の音がしていたよ。
 というものとして解釈しました。
 どこか奥ゆかしい作品で、非常に印象に残りやすいです。
 ぷちコンペという制約なしに、設定や描写を広げたものが見たいと思いました。
 そういう意味では、ぷちコンペという枠では損をしている面があるかもしれません。
8. 通常ポイント7点 お題ポイント6 時計屋 ■2010/04/02 22:14:59
「どんどろどろ」という表現がいいですね。
今回のこんぺでは一番読んでみたくなるタイトルでした。
オリキャラの一見突飛な設定が、終盤のお燐とさとりの間を見事に象徴していました。
良質な短編であったと思います。
9. 通常ポイント4点 お題ポイント2 K.M ■2010/04/02 22:33:17
アイデアが良かったと思います。
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